政治的不安定とアマゾン国家の悲劇
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「エクアドルの歴史」の記事における「政治的不安定とアマゾン国家の悲劇」の解説
1925年7月、軍内部の青年将校はクーデターを起こしてグアヤキルの自由主義者を政権から排除し、この七月革命によって新たに労働者と中間層を基盤とした軍政が敷かれることになった。革命に拠って成立したイシドロ・アヨラ政権は自由貿易から国家主導の工業化を目指し、並行して労働者保護も行っている。しかし、1929年の世界恐慌によりエクアドルも大きな打撃を受けると、社会不安と混乱が続き、1931年にアヨラ政権がクーデターで崩壊すると、以降エクアドルの政局は大混乱に陥った。 混乱が続いた後、1933年の大統領選挙では、労働者からの圧倒的な支持を受けて80%を越える得票率でホセ・マリア・ベラスコ・イバラが圧勝し、エクアドル史にはじめて姿を現した。ベラスコ・イバラは雄弁術が巧みで民衆動員に長け、寡頭支配層に敵対するポプリスモ政治家としての能力はあったが、しかし現実的な経済問題を解決することも、社会改革を行うだけの力量もなく、政権に就いても行えることは独裁を強めるだけであった。ベラスコ・イバラはこの後五度(1933年-1935年、1944年-1947年、1952年-1956年、1960年-1961年、1968年-1971年)大統領に就任するが、四年の任期を全う出来たのは三度目のみだった。しかし、以降40年間に渡り、エクアドルの現代史にはこのポプリスタが政界に君臨することになる。 ベラスコ・イバラは独裁的な姿勢を採ったため、1935年に軍事クーデターで失脚した。その後政治的な混乱が続いた後、1940年に不正選挙でベラスコ・イバラを破り、グアヤキルの寡頭支配層を代表したカルロス・アロヨ・デル・リオが大統領に就任するが、アロヨ政権は第二次世界大戦においてドイツ資本の追放など、親米政策を採ったことと、任期中のインフレの進行などが、エクアドル人の民族主義を逆撫でした。さらにアロヨ政権は間もなく大きな国難にぶつかることになる。 1941年に隣国のペルーと国境を接するアマゾン地域の領土問題が紛糾し、同年、両国の緊張は遂にエクアドル・ペルー戦争へと発展した。ペルーは領内におけるエクアドル軍の存在を侵略であると主張し、一方エクアドルはペルーこそが侵略者だと主張した。最終的に、1941年7月23日にペルーはエクアドルへの侵攻を開始した。ペルー軍は大挙してサルミーヤ川を渡河し、エクアドルのオロ県に進むと、係争地域の全てにおいてエクアドル軍を破り、エクアドルのオロ県とロハ県の一部分(国土全体のおよそ6%)を占領した。ペルーはエクアドルに係争地域の領有権の主張を撤回することを要求し、ペルー海軍はグアヤキル港を封鎖し、エクアドル軍の補給を絶った。こうして数週間の戦闘の後、アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国による圧力により戦争は終わった。エクアドルとペルーは1942年1月29日に第二次世界大戦における、枢軸国との戦いを約束するリオデジャネイロ議定書で一致した。エクアドルはこの議定書でアマゾン地域の領有権を放棄し、ペルーはこの議定書により係争地域の25万km2を獲得した。この敗北により、アロヨ政権は孤立し、また後のエクアドル・ペルー間の関係も大きく悪化した。その後二度の戦争があり、両国間の緊張は続いたが、最終的に1998年にエクアドルは遂にこのアマゾンの失陥を正式に認めることになった。
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