政府での職務
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「ジェームズ・フォレスタル」の記事における「政府での職務」の解説
1940年6月にルーズベルト大統領はフォレスタルに特別補佐官への就任を依頼し、8月には彼を海軍次官に任命した。フォレスタルは海軍次官として戦時工業生産の動員に関して非常に貢献した。フォレスタルは心臓発作で死去したウィリアム・フランクリン・ノックスの後任として1944年5月19日に海軍長官に就任し、終戦の年から戦時動員の解除まで海軍を率い、ドイツ国内の様々な兵器の情報や試作品を回収する作戦(ジョン・F・ケネディもそのメンバーの中にいた)を指揮した。 フォレスタルは国防機関の統合に反対したが、1947年9月の国家安全保障法によって国家軍政省(1949年8月に国防総省となる。)が創設され、パターソン前陸軍長官が個人的理由から辞退したことによって、皮肉にも統合反対論者のフォレスタルが初代国防長官に就任した。 彼の国家軍政省での1年と6か月の期間はアメリカの国防体制に於いて例外的に困難な時期であった。共産主義者がチェコスロバキアと中華人民共和国で政権を握り、西ベルリンが封鎖されてベルリン空輸が行われた。イスラエルの独立宣言は第一次中東戦争をもたらし、ヨーロッパでは北大西洋条約機構の創設のための交渉が行われた。フォレスタルの運営も極度の軍部間の対立で妨げられた。 フォレスタルはアラブ諸国と対立することは得策ではないとして、パレスチナ分割に対して否定的な態度をとり連邦制を主張したが、これに対してナチスの迫害を受けたユダヤ人を支援することは人道的義務であると考えるジャーナリズムや政府内外の要人から激しい批判を受けた。 また、かつてフォレスタルが海軍長官として海軍を代表し、空軍独立を含む軍再編成計画に対する反対派の中心となった過去や、海軍の空母と空軍の戦略爆撃機のいずれを重視するかという路線対立により、空軍は国防長官のフォレスタルに対して非協力的態度を取った。しかし、かつてのフォレスタル自身を含む国防機関統合反対勢力の主張を受けて国防長官の権限が弱く設定されていたため、フォレスタル国防長官が空軍をコントロールすることは困難であった。 同時期にフォレスタルは国防費の抑制を主張するトルーマン大統領と、それに反対する軍部の板挟みになり苦しんだ。フォレスタル自身はソ連の脅威に備えるべく国防費削減に反対する立場であったが、上記の理由により軍部をコントロールすることが出来ず、問題を事実上大統領に丸投げしてしまう。元々の几帳面な性格にこうした問題による激しい心労が降りかかってフォレスタルは鬱病となり、精神を病んでいく(フォレスタルの死後国防長官の権限は強化される)。
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