戦隊長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 07:28 UTC 版)
飛行戦隊の長は戦隊長で、階級は大佐・中佐・少佐・大尉が補職する。戦隊でも飛行分科によって違いはあるが、太平洋戦争開戦前頃までは大佐・中佐・少佐が一般的で、太平洋戦争前中期には中佐・少佐が多くなり、後期には大尉が任命されることが珍しくなくなっている。 帝国陸軍(陸軍航空部隊)においては「指揮官率先」の伝統から、戦隊長は階級や分科を問わず原則的に「空中指揮官」であり、自ら戦隊が装備する第一線機に搭乗し隷下の本部僚機や中隊・飛行隊を率い、積極的に空中指揮と戦闘を行うものとされた。そのため飛行第64戦隊の加藤建夫中佐や宮辺英夫少佐、飛行第244戦隊の小林照彦少佐、飛行第22戦隊の岩橋譲三少佐などを筆頭に少なくないエース・パイロットたる戦隊長を輩出していると同時に、多数の戦死者や負傷者も出しており、大戦末期には貴重な中堅空中指揮官を温存するために戦隊長の出撃を控えるよう、その旨の令を上級部隊から出されていた戦隊も多々あった。一方で、「重爆」・「軽爆」の場合は戦隊長は必ずしも操縦者としての教育を受けた者がなるものではなく、その場合は隷下中隊長機など指揮官機に同乗しての空中指揮を行う。例として1941年7月に九七式重爆を運用する飛行第98戦隊長となった臼井茂樹大佐(過去に駐在武官・参謀本部勤務)は、同年12月のビルマ攻略戦ラングーン爆撃任務において機上戦死している。 さらに「指揮官率先」は飛行戦隊に止まらず、上級部隊である飛行団(団長・飛行団長)でも珍しいものではなかった。飛行団は戦術単位の部隊であるため、戦隊長ほどの頻度ではなくとも飛行団長も空中指揮官として、飛行団司令部に配備されている第一線機ないし隷下部隊機に搭乗ないし同乗し、隷下飛行部隊を率い空中指揮を執るものとされていた。特に戦闘戦隊をメインとする「戦闘飛行団」ではそれが常識であり、操縦者出身かつ大佐・中佐級の古参高級将校たる団長の多くが操縦桿を握り実戦に出撃している。例として独立第15飛行団長・今川一策少将、第12飛行団長・川原八郎大佐、第14飛行団長・寺西多美弥中佐、第16飛行団長・新藤常右衛門中佐などが居り、中でも16FB長・新藤中佐は本土防空戦においてB-29を1機確実撃墜している。 なお、これらの「指揮官率先」の伝統はアメリカ陸軍航空軍やイギリス空軍でも同様であり、飛行戦隊に相当する飛行隊(米英)、飛行団に相当する航空群(米)の指揮官は自らが出撃し日本軍航空部隊と干戈を交えている。一例として、帝国陸軍航空部隊の一式戦が挙げた裏付の取れている多数の確実戦果中の高級指揮官機としては、第5爆撃航空団司令官ウォーカー准将機(隷下第43爆撃航空群リンドバーグ少佐機に同乗し爆撃任務空中指揮中に飛行第11戦隊機の攻撃を受け被撃墜、B-17)、第468超重爆撃航空群司令フォールカー大佐機(第1野戦補充飛行隊および第17錬成飛行隊機の攻撃を受け被撃墜、B-29) 、第348戦闘航空群司令カービィ大佐機(アメリカ軍主要エース、飛行第77戦隊機の攻撃を受け被撃墜、P-47)、第530爆撃航空群司令ミルトン中佐機(飛行第64戦隊機の攻撃を受け被撃墜、P-51)、第1特任航空群司令ゲイティ大佐機(飛行第64戦隊機の攻撃を受け被撃墜、P-47)、第1特任航空群司令コクラン大佐機(飛行第50戦隊機の攻撃を受け墜落寸前の状態まで被弾、帰還後に上級部隊より以後の空戦参加禁止命令を受領、P-51) などがあり、さらにこのほか米英飛行隊長機の多くを撃墜している。
※この「戦隊長」の解説は、「陸軍飛行戦隊」の解説の一部です。
「戦隊長」を含む「陸軍飛行戦隊」の記事については、「陸軍飛行戦隊」の概要を参照ください。
- 戰隊長のページへのリンク