戦場への移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/04 10:22 UTC 版)
「フレデリックスバーグの戦い」の記事における「戦場への移動」の解説
北軍は11月15日に行軍を開始し、戦闘部隊は11月17日にファルマスに到着した。バーンサイドの作戦は直ぐに躓いた。舟橋を前もって送りラッパハノック川を素早く渡れるように命令を出していたが、手配のしくじりから橋は軍隊より前に送られていなかった。エドウィン・V・サムナー少将が到着した時、直ぐに川を渡って町にいる500名ばかりの南軍部隊を蹴散らし、西側の地の利のある高地を占領することを強く推奨した。バーンサイドは増加する秋の雨で川の浅瀬が使えなくなりサムナーが遮断されて打ち破られることを恐れて慌てはじめた。バーンサイドはサムナーにファルマスで待つように命じ、それまでのイニシアチブを失った。 11月21日までにジェイムズ・ロングストリート中将の軍団がフレデリックスバーグ近くに到着し、ジャクソンの軍団も急速で続いた。リーは当初バーンサイドとフレデリックスバーグの北西で戦うことを予測し、ノースアンナ川の背後に後退する必要があると見ていた。しかし、バーンサイド軍が緩り動いているのを見ると、全軍にフレデリックスバーグに向かうよう命じた。11月25日に最初の舟橋がファルマスに到着したが、ポトマック軍が抵抗もなしに川を渡るには遅すぎた。しかしリー軍はその半数しか到着しておらず、また塹壕に入ってもいないので、素早く行動するならバーンサイドにはジャクソンが到着する前にロングストリート軍を攻撃して打ち破る機会がまだあった。舟橋が揃ったのは月末であり、この時にはジャクソン軍が到着しロングストリート軍は強い防御陣を構えていた。 バーンサイドは元々、フレデリックスバーグの東、10マイル (16 km)下流で川を渡る考えだったが、ジュバル・アーリー准将の師団がそこに到着して遮った。このために直接フレデリックスバーグに渡ることを決断した。12月9日、ハレックに宛てて、「私は川の他の場所よりも我々の前面で直ちに渡河すれば、敵の意表に出ることができると考える。...敵の大部隊は今ポートロイヤルに結集していて、その残りがフレデリックスバーグに居ると確信し、これを倒せると期待する。」と書いた。バーンサイドは自軍の勢力的な優勢さに加え、有効な攻撃を受けないことが判っている点でも有利だった。ラッパハノック川の対岸ではスタッフォード高地と呼ばれる尾根に220門の大砲が据えられ、リー軍が大規模な反撃を仕掛けることを不可能にしていたからである。 北軍が渡河を試みる2日前でも敵司令官の作戦がよくわかっていなかったにも関わらずリーは自軍の勝利を強く信じていた。左翼であるロングストリート配下の約2万名の兵士を市の直ぐ西、メアリーズハイツと呼ばれる尾根の頂上にある石壁の背後に置いた。市の南部、下流で渡河されることも恐れ、残りの部隊をジャクソン軍の南に配置した。その地域は丘が入り組んでおり、もう一つの優れた防御陣地になっていた。 12月11日朝、北軍の工兵技師達は全部で6個の舟橋を、2個は町中心の直ぐ北に、3番目は町の南端に、残り3つは南に近くラッパハノック川とディープランの合流点近くに組み立てた。工兵たちは特にウィリアム・バークスデイル准将のミシシッピ旅団に属する狙撃兵の銃火により大きな痛手を受けた。最終的にバーンサイドの部下が説得してその夜にボートで上陸部隊を送り込み、小さな橋頭堡を確保して狙撃兵を追い出した。南軍は北軍の援護砲撃があったために活発には上陸に抵抗しないことを選んだが、南北戦争でも最初の市街戦が起こり、建物は歩兵と対岸からの砲撃で取り払われた。北軍の大砲は5,000発以上の砲弾を町とその西の尾根に撃ち込んだ。橋が完成し、バーンサイド軍が市内を激しく蹂躙したので、リーはそれを古代ヴァンダル族の略奪行為になぞらえて怒った。この破壊行為は、その兵士の多くがバージニア生まれのリー軍兵士も怒らせた。12月11日と12日の流れの中で、バーンサイドの部隊は市の外郭に布陣しリー軍を攻撃する準備を整えた。
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