戦争、バッツフォード・パーク、アストホール・マナー
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「ナンシー・ミットフォード」の記事における「戦争、バッツフォード・パーク、アストホール・マナー」の解説
1914年8月4日に第一次世界大戦が始まると、デイビッドはその連隊に再入隊し、間もなくフランスに行った。1915年5月、デイビッドの兄であるクレメントが第10軽騎兵連隊に従軍しているときに戦死した。このことでデイビッドはリーズデールの爵位と土地を継承する者になった。1916年8月17日、バーティ・ミットフォードが死んだ。このときデイビッドはまだ前線にあったが、第2代リーズデール男爵になった。シドニーは直ぐに長年ほとんど閉鎖された状態にあったバッツフォード・ハウスを占領し、暖められる場所を使った。子供達は屋敷や庭の主導権を取り、1つの教室で共に教育を受けた。これはナンシーにとっては憤懣の種となり、その活発な知性は大きな刺激を必要としていた。バッツフォード・ハウスの図書室で本を読んで時間を過ごし、ヘイスティングスに拠れば、知的生活の基礎が作られた時だった。 リーズデールの敷地は広大だったが、不経済だった。終戦のときに、リーズデールはバッツフォード・パークを売却して、増え続けていた家族(5女のジェシカが1917年9月に生まれていた)を、それほど贅沢ではない家に移すことにした。この家は1919年初期に売却され、ナンシーが当惑したことに、その図書室の多くを含む中身も売却された。新しい家はオックスフォードシャーのスウィングブルック近くにあったジャコバン様式建築の邸宅アストホール・マナーだった。この家は近くの土地に新しい家を建てるまでの短期的な位置付けにあった。ミットフォード家はこの家に7年間住んでいた。ナンシーが後に半自叙伝風に書いた小説で叙述する、家族劇の多くがここで行われた。 ナンシーにとって成長は難しい過程だった。直ぐ下の妹であるパメラとの関係が作れず、それより下の弟妹達には飽き飽き、イライラさせられ、その感情を、彼等をからかい、いじめることで発散した。ナンシーの嘲りの中には疑いなく残酷さもあったが、他の子供達はトムが主導して「対ナンシー同盟」をつくることになった。ナンシーのからかいは、甥のアレクサンダー・モズレーの回想に拠れば、「非常に競争的で明るく活力のある姉妹達を、秩序ある状態にしておくための高度に磨かれた武器だった。彼女はそれを自己防衛の形で使った」となる。弟妹達との対話は常に敵対的なものではなく、その楽しみのために「ザ・ボイラー」という雑誌を編集制作し、娯楽として残忍な殺人の話などを載せていた。 1921年、ナンシーは何年か適切な教育を嘆願した後、良家の若い淑女のために作られた非公式民間施設であるヒースロップ城で1年間の寄宿教育を許された。ローラ・トンプソンは、ナンシーの伝記の中で、ヒースロップのことを、学校というものではなく、「デビュー前のより質素な生活」と表現している。ここでナンシーはフランス語などの科目を習い、組織化されたゲームを行い、ガール・ガイド団員になった。家から離れて初めての生活であり、楽しむことができた。翌年ナンシーは他の4人の少女と共にパリ、フィレンツェ、ベニスを回る修学旅行を許された。彼女の家に宛てた手紙には見たもの聞いたものに対する驚きの表現で満ちており、「これほど絵が好きだとは思わなかった...私の部屋がありさえすれば、常設の画廊にしてしまうだろう」と記していた。
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