成功~作曲家として、指揮者として
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「オスカー・フリート」の記事における「成功~作曲家として、指揮者として」の解説
1898年にドイツに戻り、現ブランデンブルク州のヴェルデルに落ち着く。犬のブリーダーとして生計を立てつつ、フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカに対位法を師事するなどして音楽の学習を究めるとともに、作曲を行なった。1899年に、作家ビーアバウムの元妻グスティ・ラートゲーバーと結婚。1900年にベルリン=ニコラスゼーの住宅を買い取り、1934年に亡命するまで住み続けた。 1901年に、リヒャルト・デーメルの詩による、メゾソプラノとテノール、管弦楽のための《浄められた夜(Verklärte Nacht)》が、1903年にフリードリヒ・ニーチェの詩による、独奏者と合唱、管弦楽のための《酔歌(Das trunkene Lied)》が完成する。《酔歌》は1904年4月15日に、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とワーグナー協会により、カール・ムックの指揮の下に上演されて驚異的な大成功を呼び、夜が明けるとフリートは有名人になっていた。そしてベルリン合唱協会の指揮者に任命されることになったのである。同年、デーメルの詩により、男声合唱と管弦楽のための《刈入れの歌(Erntelied)》を作曲。これはシュテルン声楽協会によるリストの《聖エリーザベトの伝説》の演奏会に併せて上演され、成功を収めた。 1905年、《酔歌》のウィーン初演(3月6日、フランツ・シャルク指揮)がきっかけとなって、グスタフ・マーラーに出くわした。同年フリートは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の新規演奏会の指揮者に就任すると、11月8日にマーラーの《復活交響曲》を上演して大成功を収め、作曲者本人にも深い感動を味わわせた。フリートとマーラーはそれ以来、深い友情で結ばれた。 1906年10月8日、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してマーラーの《悲劇的》のベルリン初演を指揮する。フリートとベルリン・フィルは、その後1910年1月17日に《夜の歌》の、1912年10月18日には《大地の歌》の、1913年2月4日には《交響曲第9番》のベルリン初演を実現させることになった。 1907年にベルリン楽友協会演奏会とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を兼任する。1908年にはブリュートナー管弦楽団の指揮者を任された。1910年10月に楽友協会演奏会において、アルノルト・シェーンベルクの交響詩《ペレアスとメリザンド》を上演、これはシェーンベルクの大作がウィーン以外で演奏された最初の機会であった。1912年に楽友協会演奏会の監督を退く。モダニズム志向の標題音楽をプログラムに含ませる努力が受け入れられなかったのである。ベルリンで滅多に活動することが出来なくなったのに対して、フリートの進路は、第一次世界大戦直前の数年間に、次第に外国へと開けていった。外国でフリートはモダンな音楽の草分けとなった。 1912年にエミール・ヴェルハーレンの詩集『幻想の田園(Les Campagnes Hallucinées)』のシュテファン・ツヴァイクの翻訳に基づいて、メロドラマ《移民(Die Auswanderer)》を作曲。これは1913年1月にティラ・デュリウーのナレーションとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によって初演された。その後、作曲活動はこれきりにして、今後は雇用関係に縛られない指揮者として活動することになる。
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