感性経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:32 UTC 版)
1969年、撤退した「東京丸物」を継承する形でパルコ第一号店を池袋に開設。パルコに限っては、奔放な性格であるが信頼を置いていた増田通二に任せ、運営には干渉せず放任した。 1973年の渋谷進出にあたっては、若者文化やアートとの協調を掲げ、従来になかったミックス型フロア構成とバラエティ感覚で挑み大反響を呼ぶ。この渋谷パルコの成功体験により、いわゆる「文化戦略」がスタートした。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}: ──百貨店から先端の文化・情報を発信、客はまるでディズニーランドを回遊するように、渋谷に点在するギャラリーや劇場を巡って知的好奇心を満たす。快適なアメニティをロボットやニューメディアがバックアップしつつ、活動主体はあくまで人間本位。優れた文化を生む自由な社風と、互いに束縛を受けない緩やかな企業連鎖。重複事業までも認め、競合することが逆に発展的効果を促す──[要出典] こうした数量的ではなく「文学的」経営ビジョンは「感性経営」と呼ばれ話題となった。高度経済成長が一巡し、国民が物質的豊かさを享受するとともに政治的無関心が出現し始めた1970年代は、何か目新しいコンセプト、カルチャーやエンタテインメント性こそが欲望され、タイミングとして絶妙だった。こうして文化全般をポストモダン的に展開するセゾン系独特の手法は、1980年代にパルコ系「アクロス」誌が提唱した「新人類」の台頭によって支えられ、先鋭的ブランドイメージを築いた。 西武百貨店では、池袋本店は全国のモデル店として「文化」を軸に実験的な改装を重ね、また他方では、渋谷西武や渋谷パルコなどで先行開発した渋谷エリアが若者の街として急浮上し、磐石な二極体制ができあがった。池袋本店では最大規模の売上を稼ぎ出しつつ、若者文化の情報発信源と化した渋谷からは、のちに「渋谷系」やストリート系、女子高生文化といった数々の社会現象が生まれ、若者消費を牽引した。 しかし一連の急展開は、名門堤家の信用力をバックに付けた銀行融資に依存したものであり、あくなき投資で見かけ上の規模は膨張を続けるものの、利益率は著しく低いまま借金体質が続いた。
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