愛電の設立
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1906年、藍川は同志6人とともに、鉄道が未だ通じていなかった知多半島西海岸と名古屋を結ぶ電気鉄道を企画し関係当局に出願した。計画はなかなか進捗しなかったが、実業家の兼松煕や元甲武鉄道取締役の岩田作兵衛、元関西鉄道社長の田中新七らも発起人に加わってからは計画が前進し、1910年(明治43年)11月、愛知電気鉄道株式会社(愛電)が発足するに至った。藍川は同社の監査役に就任した。実業界での活動の一方で、愛電最初の路線(現在の名鉄常滑線にあたる)が開通した1912年(明治45年)、第11回衆議院議員総選挙に立候補するが、原真澄に敗れて落選した。 監査役を務める愛電は、開通したものの巨額の建設費と不況による収入減が重なって業績が低下し、さらに大須にあった遊廓の移転に絡む疑獄事件が発覚して役員の大半が辞任するという事態に直面した。1913年(大正2年)12月、藍川は愛電の取締役に選出され、次いで常務取締役となった。翌1914年(大正3年)8月には当時名古屋電灯常務の福澤桃介(同年12月以降同社社長)を新社長に招き、藍川は福澤の下で経営建て直しを始める。業績は1916年(大正5年)ごろから回復に転じ、1917年(大正6年)6月に福澤は社長の辞任を申し出て後任に藍川を推薦し、藍川が愛電の3代目社長に就任した。この後は、今度は藍川の方が福澤の事業に顔を出しており、福澤が社長となって1918年(大正7年)木曽電気製鉄が発足すると監査役となり、同社が大同電力となった後の1923年(大正12年)まで務めている。 1922年(大正11年)7月、愛電は名古屋から豊橋に至る鉄道敷設免許を得ていたものの着工するに至っていなかった東海道電気鉄道を合併した。同社は福澤桃介が社長となり将来的に東京と大阪を電気鉄道で結ぶという遠大な構想を持っていたが、資金源であった安田善次郎が急死したため事業に行き詰っていた。東海道電気鉄道が持っていた免許を引き継いだ愛電では豊橋まで路線を延長する計画を樹立し、1927年(昭和2年)6月、名古屋と豊橋を結ぶ路線(現在の名鉄名古屋本線の一部にあたる)を全通させた。 実業界での活動に並行して政界でも引き続き活動しており、1915年(大正4年)に愛知県議会議員に当選。1923年(大正12年)まで2期8年務め、その間には県議会副議長にも就任した。愛電社長となった1917年には名古屋市会議員選挙に再出馬して当選し、県議会議員と市会議員を兼任した。しかしこの時期の名古屋市政は市内で路面電車を運営していた名古屋電気鉄道の市営化問題(最終的に市営化されて名古屋市電となる)や名古屋電灯との関係をめぐって政争が続いていた。藍川も政争に巻き込まれて1921年(大正10年)の市会議員選挙では落選する。しばらく政界から離れていたが、1930年(昭和5年)、帝国大学の同窓で当時首相の浜口雄幸を支援するために誘われて第17回衆議院議員総選挙に出馬し当選、1932年(昭和7年)まで1期2年衆議院議員を務めた。選挙区は愛知県第2区、所属政党は立憲民政党である。
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