愛電の設立とは? わかりやすく解説

愛電の設立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 10:18 UTC 版)

藍川清成」の記事における「愛電の設立」の解説

1906年藍川同志6人とともに鉄道未だ通じていなかった知多半島西海岸名古屋を結ぶ電気鉄道企画し関係当局出願した計画はなかなか進捗しなかったが、実業家兼松煕元甲鉄道取締役岩田作兵衛、元関西鉄道社長田中新七らも発起人加わってからは計画前進し1910年明治43年11月愛知電気鉄道株式会社愛電)が発足する至った藍川同社監査役就任した実業界での活動一方で愛電最初の路線現在の名鉄常滑線にあたる)が開通した1912年明治45年)、第11回衆議院議員総選挙立候補するが、原真澄敗れて落選した監査役務め愛電は、開通したものの巨額建設費不況による収入減が重なって業績低下し、さらに大須にあった遊廓移転に絡む疑獄事件発覚して役員大半辞任するという事態に直面した1913年大正2年12月藍川愛電取締役選出され次いで常務取締役となった。翌1914年大正3年8月には当時名古屋電灯常務福澤桃介同年12月以降同社社長)を新社長に招き藍川福澤の下で経営建て直し始める。業績1916年大正5年)ごろから回復転じ1917年大正6年6月福澤社長辞任申し出て後任藍川推薦し藍川愛電3代目社長に就任したこの後は、今度藍川の方が福澤事業顔を出しており、福澤社長となって1918年大正7年木曽電気製鉄発足する監査役となり、同社大同電力となった後の1923年大正12年)まで務めている。 1922年大正11年7月愛電名古屋から豊橋に至る鉄道敷設免許得ていたもの着工するに至っていなかった東海道電気鉄道合併した同社福澤桃介社長となり将来的東京大阪電気鉄道で結ぶという遠大な構想持っていたが、資金源であった安田善次郎急死したため事業行き詰っていた。東海道電気鉄道持っていた免許引き継いだ愛電では豊橋まで路線延長する計画樹立し1927年昭和2年6月名古屋豊橋を結ぶ路線現在の名鉄名古屋本線一部にあたる)を全通させた。 実業界での活動並行して政界でも引き続き活動しており、1915年大正4年)に愛知県議会議員当選1923年大正12年)まで2期8年務めその間には県議会副議長にも就任した愛電社長となった1917年には名古屋市会議員選挙再出馬して当選し県議会議員市会議員兼任した。しかしこの時期名古屋市政市内路面電車運営していた名古屋電気鉄道市営問題最終的に市営化され名古屋市電となる)や名古屋電灯との関係をめぐって政争続いていた。藍川政争巻き込まれ1921年大正10年)の市会議員選挙では落選する。しばらく政界から離れていたが、1930年昭和5年)、帝国大学同窓当時首相浜口雄幸支援するために誘われて第17回衆議院議員総選挙出馬し当選1932年昭和7年)まで1期2年衆議院議員務めた選挙区愛知県第2区所属政党立憲民政党である。

※この「愛電の設立」の解説は、「藍川清成」の解説の一部です。
「愛電の設立」を含む「藍川清成」の記事については、「藍川清成」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「愛電の設立」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「愛電の設立」の関連用語

愛電の設立のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



愛電の設立のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの藍川清成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS