恋の歌人
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後醍醐との最初の子は皇女で、正和3年(1314年)6月13日の午の刻(正午ごろ)に無事生まれた(『花園天皇宸記』同日条)。しかし、この皇女はその後歴史上で言及がなく、誕生後間もなく早逝したと推測される。 その後、同年12月に再び懐妊。翌年の正和4年(1315年)4月には着帯の儀が行われ、西園寺実衡(年上の甥)が御帯を用意するなど、西園寺家から高い期待を掛けられていた(『公衡日記』同月条)。8月23日に常盤井殿(後醍醐の叔父の恒明親王の邸宅)へ移動し(『公衡日記』同日条)、そして、10月16日(西暦11月13日)には、皇女の懽子内親王(かんし/よしこないしんのう)が生まれた(『皇代暦』等)。 文保2年2月26日(1318年3月29日)、皇太子尊治親王が践祚し、後醍醐天皇となる。天皇の正室となった禧子は、同年4月20日に従三位を叙され、7月28日に女御宣下(『女院小伝』)。次いで翌元応元年8月7日(1319年9月21日)には中宮に冊立される(『女院小伝』)。 娘の懽子もまた、同じく元応元年(1319年)7月に数え5歳で内親王宣下を受けた(『女院小伝』)。やや後のことになるが、正中2年(1325年)8月16日には、数え11歳の懽子の裳着(成人の儀式)が、後三条天皇の延久年間以来約250年ぶりに清涼殿で行われるなど、高い扱いを受けた(『花園天皇宸記』同日条)。 『増鏡』「秋のみ山」によれば、禧子の父の西園寺実兼は、老後に娘が中宮となったのでとても喜んだという。森茂暁の推測によれば、娘が連れ出された当初は面食らったであろう実兼も、娘が手厚く扱われているのを見て気持ちがほぐれていき、やがて後醍醐に目をかけるようになったのではないかという。西園寺家は琵琶の帝師を家業の一つとしたので、後醍醐は禧子の父の実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を習った(『花園天皇宸記』元亨2年(1322年)9月10日条等)。 また、このころ後宇多上皇(後醍醐父)の命で編纂された『続千載和歌集』(1318年 - 1320年)に禧子の和歌が入集し、勅撰歌人となった。日本の歴史上、禧子の和歌は14首が勅撰集に入集したが(准勅撰を加えれば15首)、存命中に後宇多・後醍醐のもと編まれた2つの勅撰和歌集(『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』)にある8首のうち、75パーセントに当たる6首が「恋歌」の部に収録され、後醍醐との恋愛を詠んでいる。 又いつと しらぬもかなし 今はとて おき別つる 名残のみかは(大意:あなたとの次の逢瀬がいつになるのか、わからないのが本当に切ないです。またねと言って、起きて離れ離れになった後の寂しさの名残は、沖へ潮が引いた後に残るなごり(水たまり)のよう。これで最後なのでしょうか。いいえ、いつか潮がまた満ちるように、あなたならきっとまた私の心を満たしてくれるはず) —中宮、『続後拾遺和歌集』恋三・844
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