恋の歌人とは? わかりやすく解説

恋の歌人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「恋の歌人」の解説

後醍醐との最初の子皇女で、正和3年1314年6月13日午の刻正午ごろ)に無事生まれた(『花園天皇宸記同日条)。しかし、この皇女その後歴史上言及がなく、誕生後間もなく早逝したと推測されるその後同年12月に再び懐妊翌年正和4年1315年4月には着帯の儀が行われ、西園寺実衡年上の甥)が御帯を用意するなど、西園寺家から高い期待掛けられていた(『公衡日記同月条)。8月23日常盤井殿(後醍醐叔父恒明親王邸宅)へ移動し(『公衡日記同日条)、そして、10月16日西暦11月13日)には、皇女懽子内親王(かんし/よしこないしんのう)が生まれた『皇代暦』等)。 文保2年2月26日1318年3月29日)、皇太子尊治親王践祚し、後醍醐天皇となる。天皇正室となった禧子は、同年4月20日従三位叙され7月28日女御宣下(『女院小伝』)。次いで元応元年8月7日1319年9月21日)には中宮冊立される(『女院小伝』)。 娘の懽子もまた、同じく元応元年1319年7月数え5歳内親王宣下受けた(『女院小伝』)。やや後のことになるが、正中2年1325年8月16日には、数え11歳の懽子の裳着成人儀式)が、後三条天皇延久年間以来250年ぶりに清涼殿行われるなど、高い扱い受けた(『花園天皇宸記同日条)。 『増鏡』「秋のみ山によれば、禧子の父の西園寺実兼は、老後に娘が中宮となったのでとても喜んだという。森茂暁推測によれば、娘が連れ出され当初面食らったであろう実兼も、娘が手厚く扱われているのを見て気持ちほぐれていき、やがて後醍醐目をかけるようになったではないかという。西園寺家琵琶帝師家業一つとしたので、後醍醐は禧子の父の実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶習った(『花園天皇宸記元亨2年1322年9月10日条等)。 また、このころ後宇多上皇後醍醐父)の命で編纂された『続千載和歌集』(1318年 - 1320年)に禧子の和歌入集し、勅撰歌人となった日本の歴史上、禧子の和歌14首が勅撰集入集したが(准勅撰加えれば15首)、存命中に後宇多後醍醐のもと編まれ2つ勅撰和歌集(『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』)にある8首のうち、75パーセントに当たる6首が「恋歌」の部に収録され後醍醐との恋愛詠んでいる。 又いつと しらぬもかなし 今はとて おき別つ名残のみかは(大意あなたと次の逢瀬がいつになるのか、わからないのが本当に切ないです。またねと言って起きて離れ離れになった後の寂しさ名残は、沖へ潮が引いた後に残るなごり(水たまり)のよう。これで最後のでしょうか。いいえ、いつか潮がまた満ちるように、あなたならきっとまた私の心を満たしてくれるはず) —中宮、『続後拾遺和歌集』恋三・844

※この「恋の歌人」の解説は、「西園寺禧子」の解説の一部です。
「恋の歌人」を含む「西園寺禧子」の記事については、「西園寺禧子」の概要を参照ください。

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