後世の評価・人物像
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「トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)」の記事における「後世の評価・人物像」の解説
ストラフォード伯が生きた17世紀は、イングランドにピューリタニズムが浸透しはじめた時代であった。独立派や長老派などピューリタンは、イングランド国教会のヒエラルキー構造を批判したのみならず、党派によっては千年王国論など政治面でのドラスティックな改革を要求する存在であった。こうした層がイングランドに生まれてきていたなかで、ストラフォード伯は従来の教会・国家像を堅守する保守側の政治家であった。 ストラフォード伯は生涯でジョン・サヴィルやバッキンガム公など幾人かの政敵と対峙した。彼らとの対立は深刻で、生き残るためには冷酷さ・残忍さを持ち合わせている必要があった。映画「クロムウェル」などで悪役として描かれているのは、こうした冷酷な面を有していたことによる。またピューリタニズムの浸透が薄いイングランド北部に生を享けたストラフォード伯にとって、政治的ピューリタニズムは反逆的危険思想に映った。 ストラフォード伯の政治的な理想は国王と議会の調和であった。ストラフォード伯にとって議会の権限(徴税など)と国王の権限(外交・戦争および議会の召集・解散)はそれぞれ不可侵のものであり、17世紀の議会は国王大権に真っ向から対立していた。ストラフォード伯の目指した理想はエリザベス1世時代の体制であり、17世紀には通用しなかったという指摘もある。 ストラフォード伯への評価は時代によって二転三転した。アイルランドの人々にとっては議論の余地のない悪役であったが、ヨーク大学のウェントワース・カレッジにその名を残しているように、イングランドにおいては必ずしも悪役として評価されているわけではない。清教徒革命における国王派や後のトーリー達にとっては殉教者のひとりであり、議会派やホイッグにとっては尊大な権力志向者であった。 ストラフォード伯をめぐる評価は分裂状態にあったが、1732年にノウラー(Knowler)の名で出版された「Strafford's Letters」が転機をもたらした。ストラフォード伯の非公開の手紙・書簡などからなるこの書は、著者ノウラーの背後にパトロンとしてストラフォード伯の曾孫のロッキンガム子爵が先祖の名誉を回復しようとしたものであり、都合の悪い部分は削除して出版されたものであった。しかしこれが真に受けられ、以降20世紀中ごろまでストラフォード伯は忠実なる国王の従僕にして悲劇の主人公ということになった。20世紀前半、バークレア(1931年)・ウェッジウッド(英語版)(1935年)・バークンヘッド(1938年)がそれぞれストラフォード伯の伝記を出版したが、いずれも好意的評価を与えるものであった。ところが「都合の悪い部分」が20世紀半ばに見つかってしまい、風向きが変化することになる。ストラフォード伯の強権的で無慈悲な態度をしめす記述がすくなからず見つかり、ウェッジウッドは1961年に改訂版を出して対応した。ストラフォード伯は一転、イングランド内戦の原因を作った犯人の1人になってしまった。 ストラフォード伯をどのように描写するかについて、歴史家の間で見解の一致はみられない。彼は常に政敵と戦う必要に迫られており、冷酷さなしには政界で生き残れなかったのも確かであった。権利の請願に参加しながらも国王に強く敵対しなかったのも、彼の出身選挙区であるヨークシャーの人々の意見を吸い上げてのことであった。彼の積極的意志はアイルランド総督時代にみられ、議会運営をうまく行い、カトリックのみならずプロテスタントの不在地主の所有地にもメスを入れたことはイングランド在住の既得権者の恨みを買い、最後に国王の「専制」の責任を一身に背負って人生を終えた。ストラフォード伯は期待された役割を果たしただけであるとする意見がある一方、横暴さや冷酷さを指摘する声もあり、彼をめぐる議論は現在進行形で続いている。
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