律法学者との問答(導入とたとえ話)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:32 UTC 版)
「善きサマリア人のたとえ」の記事における「律法学者との問答(導入とたとえ話)」の解説
ある律法学者(英語版)が『永遠の生命を得るために何をすれば良いか』をイエスに尋ねるが、ここで「立ち上がった」とある事から、このたとえ話は会堂で行われたと推察することもできる。 問われたイエスは、逆に律法にはどう記されているかと問い返した。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。また、『隣人を自分のように愛しなさい』とあります」という律法学者の答えは申命記6章5節とレビ記19章18節を合わせたものであり、全律法の要約である。イエスは律法学者に対して「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と返答した。 「では、私の隣人とは誰のことですか」となぜ律法学者が再び尋ねたかについては、問題を提出したことを弁明し、自分の面目を保つためであったとされるほか(フランシスコ会訳聖書の注解)、傲慢な罪人の常として、自分を義とするため、すなわち、誰を隣人とするかが明らかになっていない以上、ユダヤ人のみを隣人とする限定的な戒めの実行を自分が果たしている事を以て自分が律法を守っている事を誇示しようとしたためとも説明される(正教会の注解)。 ここでイエスは律法学者にたとえ話で返答する。 イエスのたとえ話は、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った」と始まるが、エルサレムとエリコの間は約30キロメートル離れ、標高差が1000メートルほどあり、その山がちな地形が格好の隠れ場所となったために盗賊が出没する事で有名であった。 そして、祭司とレビ人(びと)が登場する。エリコは「祭司らの町」であり、祭司もレビ人(びと)もエリコに住んでおり、彼らはそれぞれ任とするエルサレムでの奉事を終えてエリコに帰るところだったのであろう。二人とも怪我人をさけて道の反対側を通りすぎた。サマリア人は当時ユダヤ人にとって宗教上の理由から関わりたくない対象であったが、怪我人を助けたのは通りかかったサマリア人であった。彼はその人に近寄って、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてろばに乗せて宿屋まで連れてゆき、その人を介抱した。 イエスの語るこのサマリア人には同情心と素朴な優しさがあったのであろう。道の上に倒れている人を見たとき、自分と同じ人間が死にそうになっている、苦しんでいる、不憫でならないという気持ちがあった。それを放置できない慈しみがこのサマリア人にはあった。祭司、レビ人は、思いがけず厄介なものに遭遇して、思わずそこから遠ざかり立ち去ってしまったのであろうが、もっとも大切な愛徳の実践が欠けていたのであった。
※この「律法学者との問答(導入とたとえ話)」の解説は、「善きサマリア人のたとえ」の解説の一部です。
「律法学者との問答(導入とたとえ話)」を含む「善きサマリア人のたとえ」の記事については、「善きサマリア人のたとえ」の概要を参照ください。
律法学者との問答(むすび)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:32 UTC 版)
「善きサマリア人のたとえ」の記事における「律法学者との問答(むすび)」の解説
イエスは質問をした律法学者に対して、以上のたとえ話をした後、「この三人の中で誰が強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と問い、律法学者はこれに対して「その人を助けた人です」、すなわちサマリア人であると答えている。律法学者はこの回答において「助けたサマリア人です」とは答えなかった、つまり民族名を出さなかった。これには、律法学者にとっては「サマリア」という名は口に出したくないほど嫌悪の対象であった背景が表れている。他方、それほどサマリア人に対して嫌悪感を持っている律法学者であっても、たとえ話において三人のうち誰が怪我人の隣人になったかを問われた際には、名指しこそ避けたもののサマリア人であると認めている。律法学者はたとえ話を聞きつつ、その内容への驚きと、自分の了見の狭さに対する悔恨を感じていたのであろう。それはまた律法学者を正しさに導こうとするイエスの望みでもあったとする解釈例がある。 「隣人となる」ということは、他者の悩みを共に悩み、隣人の重荷を共に担うことを意味する。正教会、カトリック教会、プロテスタントの多くにおいては、『あなたも行って同じようにしなさい』は、困っている人、助けを必要としている人を見たら、だれであっても手を差し伸べるように、慈しむように命じられた教えであると解釈されている。 祭司とレビ人が怪我人をよけて通り過ぎたのは、怪我人と関わって自分に血が付くと、ある種のおきてのために自分の職務に差しさわりが出ることを恐れたのかもしれない。しかし、そのような形式主義的な律法主義よりも神の慈しみの心の方が大切だとイエスは主張している。律法学者の「私の隣人とは誰ですか」という自己中心的な問いかけに対して、「困っている人の隣人になったのは誰か」という他者中心的な問いかけを返すことによって、「あなたは自らすすんで助けを必要としている人に近寄りその人の隣人になりますか」という問いかけをイエスは言外に律法学者に提示している。「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉からもわかるように、そのような隣人愛を実践する人が永遠の生命を相続するのだとイエスは教えている。 ユダヤ人と宗教的に対立していたサマリア人の行為を、「永遠の命を得る」ための模範とすることによって、このたとえ話にはルカが強調する民族を超えた普遍的救済のテーマが展開されている。
※この「律法学者との問答(むすび)」の解説は、「善きサマリア人のたとえ」の解説の一部です。
「律法学者との問答(むすび)」を含む「善きサマリア人のたとえ」の記事については、「善きサマリア人のたとえ」の概要を参照ください。
- 律法学者との問答のページへのリンク