自己義認の誤りの論破としての解釈(信仰義認のプロテスタント)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:32 UTC 版)
「善きサマリア人のたとえ」の記事における「自己義認の誤りの論破としての解釈(信仰義認のプロテスタント)」の解説
他方、行為によって義とされるのではなく信仰によってのみ義とされるとの信仰義認の立場をとるプロテスタントにおいては、「善きサマリア人」のたとえ話についても、博愛慈善の教えではないとする解釈がなされる事がある。こうした解釈においては、このたとえ話の目的は「自分の正しさを示そうとする」ユダヤ教律法主義への反論であり、キリスト教神学から見ればなお不十分であるが自己義認の誤りを論破する記事であると解釈されている。 この立場においての解釈例として、律法学者との問答において、最初の問いに対してはイエスから楽観的な答えがなされ(『あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』)、次の問いに対してはたとえ話の後に絶望に追いやる冷たい突っぱねがなされた(『あなたも行って同じようにしなさい』)とするものがある。『そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』は、パウロがその不可能性を発展させて信仰義認の教理を展開した土台となっているとされる(ガラテヤの信徒への手紙<3:12>、ローマの信徒への手紙<10:5>:このパウロ書簡の該当箇所についても解釈が分かれ、全教派にこうした見解のみがある訳ではない)。 ただし、「隣人とは誰か」と待って捜す態度、愛に値する人を選り好みする高慢に対して、そうではない愛の本質を示すたとえ話でもあるという解釈は、こうした立場からもなされる。こうした解釈をする立場においても人を助ける行為を否定する訳ではない。「信仰のみ」の原理も義認後の人間の行いを排除するものではなく、ルターによる理解では、この原理は義認後の人間の行いを可能にするものである。またプロテスタントにおいても、本たとえ話につき、困っている人を愛するよう教える内容であるとする解釈はある。実際、後述「人種差別の否定、とする解釈」節においてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの解釈が示されるが、キングはプロテスタント(バプテスト)である。
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