左右の分裂と総評、社会主義協会の結成
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「日本社会党」の記事における「左右の分裂と総評、社会主義協会の結成」の解説
「日本社会党の派閥」も参照 1950年(昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立し、1951年(昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長、島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。 しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。 1951年(昭和26年)、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ再び銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年(昭和27年)には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。 左派社会党は1954年(昭和29年)に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。 社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年(昭和30年)の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。 日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定、天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲 に傾いていった。
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