工廠跡の利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 07:21 UTC 版)
1941年(昭和16年)、海軍が建設を進めていた「津海軍工廠」(高茶屋海軍工廠)が完成した。工廠では徴用工や学生が労働力となった。 戦後、軍の管轄下にあった水道が津市に移譲され、「高茶屋水道」として営まれることになった。「高茶屋水道」は電力を使っていたことから停電のたびに断水するという不便さがあり、1949年(昭和24年)12月に津市の既設水道管と連結し、「垂水ポンプ場」を設けて断水しないように改良された。工廠跡は1947年(昭和22年)に旧通信施設を利用して三重県警察練習所(翌1948年<昭和23年>に三重県警察学校に改称)が設置された。また、旧女子工員寄宿舎は改造の上、児童が急増した高茶屋小学校の仮校舎に、旧守衛本部は1948年(昭和23年)1月30日に南郊中学校の校舎に、旧工廠本部は1945年(昭和20年)7月28日の津空襲で校舎を失った津市立高等女学校の校舎になった。津市の新制中学校で初めて独立校舎を所有したのが南郊中学校であった。その後、津市高等学校が移転して空いた校舎へ南郊中学校は移転、1965年(昭和40年)に現校地の新築校舎へ移転した。 1954年(昭和29年)には小森と小森上野がそれぞれ高茶屋小森町、高茶屋小森上野町に改称され、冠称として「高茶屋」の地名が復活した。戦災者が高茶屋地域と高茶屋に隣接する一志郡久居町本村乙に多く移住し、人口は急増し、久居町本村乙の一部が1950年(昭和25年)に津市の一部となり、「西城山」という大字が成立した。西城山は1954年(昭和29年)に高茶屋西城山町に改称、さらに1981年(昭和56年)に高茶屋小森町と高茶屋小森上野町の一部と合わせて、新町名「城山」となった。そして住居表示の実施により、1997年(平成9年)11月25日に高茶屋小森町と高茶屋小森上野町の一部をもって「高茶屋」が成立した。 戦後は高茶屋への工場進出が進んだ。大手では、1948年(昭和23年)に井村屋がビスケット製造工場として津工場を建設、1965年(昭和40年)に住友ベークライト津工場が操業を開始した。特に井村屋は1960年代の津市域にあった菓子・パン製造業者58軒中55軒分に相当するほどの従業者数を抱える大規模工場であった。工業集積が進む中、三重県工業試験場を前身とする三重県工業技術センター(現:三重県工業研究所)も1972年(昭和47年)6月に高茶屋へ移ってきた。
※この「工廠跡の利用」の解説は、「高茶屋」の解説の一部です。
「工廠跡の利用」を含む「高茶屋」の記事については、「高茶屋」の概要を参照ください。
- 工廠跡の利用のページへのリンク