寿司につながった魚介類の保存方法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:05 UTC 版)
「寿司」の記事における「寿司につながった魚介類の保存方法」の解説
この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。 『栽培植物と農耕の起源』(中尾佐助 1978)では「ラオスの山地民やボルネオの焼畑民族」の焼畑農耕文化複合の一つとされている。『すしの本』(篠田統 1970)は、東南アジアの山地民の魚肉保存食を寿司の起源と挙げ、高地ゆえ頻繁に入手が困難な魚を、長期保存する手段として発達したものとしている。『魚醤とナレズシの研究 モンスーン・アジアの食事文化』(石毛直道 & ケネス・ラドル 1990)では、東北タイやミャンマーあたりの平野部を挙げ、水田地帯で稲作と共に成立した魚介類の保存方法が後に伝わったとしている。 中国で「鮨」の字は紀元前5 - 3世紀に成立した辞典『爾雅』に登場する。「魚はこれを鮨という。肉はこれを醢という」と対比され、鮨は魚の塩辛と篠田は解釈している。後漢の『説文解字』に「鮺は魚の蔵(貯蔵形態)」であるとし、䰼と鮺は同じとする一方、鮨は魚の䏽醤(塩辛)だとして区別した。鮺がどのような保存食かは不明だが、10世紀の徐鍇の注は「今俗に鮓に作る」としており、これをもって「鮓」の濫觴と言える。2世紀末成立の『釈名』で鮓は「葅。塩と米で葅のように醸し、熟してから食べる」とされている。葅は漬物のことである。しかし、3世紀頃に編まれた『広雅』は鮨は鮓なりとして区別せず、東晋の郭璞による『爾雅注』も同じである。篠田は様々な記録から「鮓」が中国の古い時代にはあまりポピュラーな食べ物ではなかったことを示し、「南方を起源とする外来食」、つまり東南アジアから伝わったものと位置付けている。 日本における文献初見は『養老令』(718年)の「賦役令」で、鰒(アワビ)鮓、貽貝(イガイ)鮓のほかに雑鮨が見える。『令義解』はこれに「鮨また鮓なり」と注解しており、以後も日本では鮨と鮓が区別されず、ともに「すし」とされた。『正税帳』(729年-749年)にも見える。篠田統、石毛直道らによると、これは外から来たものであり、稲作文化とともに中国は長江あたりから九州に伝わったのではないか、とみている。「鮓」の読みは『新選字鏡』(899年-901年)で「酒志」、「鮨」の読みは『倭名類聚抄』(931年-938年)に「須之」とされている。
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