天然記念物の指定と環境変化による野生絶滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:39 UTC 版)
「十二町潟オニバス発生地」の記事における「天然記念物の指定と環境変化による野生絶滅」の解説
江戸時代の新田開発によって広い湖であった布勢水海から小規模な潟湖となった十二町潟であるが、水生植物の種類と数は豊富で、浮葉性のもの(ヒシ、ガガブタなど)、浮遊性のもの(ウキクサ、サンショウモなど)、沈水性のもの(マツモ、イバラモなど)、多種多様な水生植物が自生している。それらの中でも、かつての十二町潟ではオニバスが群を抜いてよく知られていた。 十二町潟のオニバスは巨大かつ生育数の多さでは他に例がないという理由で1923年(大正12年)3月7日に国の天然記念物に指定されたが、これは1919年(大正8年)の史蹟名勝天然紀念物保存法制定から4年後のことで、富山県下で最初の国の天然記念物指定事例である。当初の指定水域は今日と異なり、十二町潟上流部の島崎橋から上流方向へ約560メートルの範囲、指定面積は6178平方メートルであった。 以来、毎年夏になると数多くの大きな浮葉と紫色の花を咲かせていたが、昭和20年から30年頃にかけ客土による潟湖の泥の掘りあげに伴い、泥に含まれるオニバスの種子も影響を受け、また前述した仏生寺川の河川工事などもあってオニバスは徐々に減少し始めた。植物学者の本田政次は1957年(昭和32年)8月、現地でのオニバスの激減や、潟湖での泥あげ、藻の肥料化の作業が毎年行われている等の実地調査報告書を受け、指定当時の状況と現状では格段の相違が認められると自著の中で述べている。 減少が続いたオニバスに追い打ちをかけたのは1968年(昭和43年)の万尾川の河川改修工事で、これが指定エリアのオニバスに大打撃を与えたと言われており、翌1969年(昭和44年)4月12日、当初の指定地域である万尾川中流部(島崎橋上流部)より下流の十二町潟の一部(15016平方メートル)を追加指定した上で、大正12年当初の指定エリアは1971年(昭和46年)10月8日に指定が解除された。文化庁文化財データベースサイトによれば、富山県営排水事業により万尾川中流域では発生しなくなるので、下流域を追加指定し保存対策を講じていく旨の解説がされている。 オニバス減少に危機感を持った地元氷見市では1972年(昭和47年)から翌年にかけて「十二町潟オニバス発生地の保護育成調査」を実地し対策の考案を行い、十二町潟にほど近い氷見市立十二町小学校ではオニバス池を造成し生育を試みるなど保全活動に努めたが、1979年(昭和54年)ついに十二町潟ではオニバスの発生が見られなくなり野生絶滅となった。
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