布勢水海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:39 UTC 版)
「十二町潟オニバス発生地」の記事における「布勢水海」の解説
十二町潟は氷見市を流れる仏生寺川、および万尾(もお)川の下流域にある潟湖で、同市市街地の南西方向に位置している。この付近にはかつて布勢水海(ふせみずうみ)と呼ばれた大きな湖(潟湖)があり、奈良時代には越中国の国守となった大伴家持が湖上に船を浮かべて、都から来た客人をもてなす宴が開かれたという言い伝えが残されており、万葉集にはその時に詠まれた歌が複数収められている。 詳細は「布勢水海」を参照 江戸時代に入ると布勢水海では新田開発による埋め立てによる水田化が進められ徐々に水域が狭まり、湖水流出口近くに位置する水域の一部が最終的に残り、これが今日の十二町潟の原型となった。 文政年間(1812年-1830年)に書かれた記録によれば、当時の十二町潟は今日の単位に換算して長さ2.7キロメートル、幅約1.3キロメートルにおよび、沿岸一帯にはハスが生い茂り、開花時は非常に美しいものであったという。 明治に入った1870年(明治3年)には、十二町潟から流出する湊川とは別に、洪水対策のための排水路として八幡疎水が掘削され、江戸期以降の埋め立てによって生まれた十二町潟周辺の湿田水田は乾田化が図られた。その後1950年代(昭和20年代後半)には十二町潟へ流入する最大河川である仏生寺川の流路が付け替えられ、さらに十二町潟とに直接流れ込んでいた万尾川も1968年(昭和43年)の河川改修により潟湖の南側を堤防を隔てた形に流路変更されるなど、十二町潟の環境は大きく変化していった。
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