布告の真意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 21:05 UTC 版)
この布告がそのまま実施されていれば、日本本土も沖縄と同じ扱いを受けていたことになることも考えられたが、上述のように重光・マッカーサー会談の結果、館山での4日間を除いて日本本土における軍政の施行はなくなり、ポスターもすべて回収されて処分され、B円も使用にこだわる部局との調整を経て、概ね回収された。 過酷な内容の布告が一度は作成された背景としては、マッカーサーらが実際に目の当たりにするまでの、伝聞や想像からできあがった「日本の事情」もからんでいる。長く戦場にいたマッカーサーらにとっては、日本の事情は、ヒトラー自殺後の内閣やフレンスブルク政府がすべて否定され、中央政府の存在そのものが「抹殺」されたドイツと同じようなものとみなしていた節があり、これが「三布告」が作成された背景だとする。しかし、降伏から交渉、進駐と連合軍との諍いもなく順調に進んだことを目の当たりにして、日本政府に関する見方を根本から変えた。当のドイツでの直接統治方式がうまくいかずマイナスとみなされていたこと、昭和天皇の扱いに関してジョセフ・グルー元駐日大使に代表される知日派の「天皇の威光を介した占領統治」の主張が、最高責任者たるハリー・S・トルーマン大統領の考え方にマッチしたのも幸いした。元扶桑社役員で著述家の河原匡喜は、「マッカーサーは日本人の武士道を信じて」、「自分の信じる『日本人』に占領政策の遂行を賭けた」としている。ただ、実際の事情や山積する問題解決のために、時にはアメリカ政府の意向に反するGHQの独断専行な行動も目立った。 また、大筋では間接統治が決まっていたものの、最終的にその方向性が決定されたのは、マッカーサーら総司令部一行が東京に移動してからの9月中旬に入ってからのことであり、それまでは直接統治派と間接統治派の意見が真っ向から対立していた。三布告や館山への軍政施行は、二つの意見が対立していた時期の副産物の一つとみなすこともできる。なお、マッカーサー自身は長期的には直接統治、一時的には間接統治が有効とみており、GHQの中枢を占めた要人は,直接統治を念頭に人選が行われたものであった。
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