大野 佐吉 (初代)
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大野 佐吉(おおの さきち、天保2年(1831年)? - 明治39年(1906年)6月1日)は、江戸時代後期の商人。北辰一刀流の達人でありながら、醤油で魚貝類を煮込むという今日食される佃煮の形を創り上げた人物。鮒屋佐吉とも呼ばれていた。 天保2年(1831年)に下総国郷士であった大野與惣兵衛の子として、下総国葛飾郡九日市村(現 千葉県船橋市本町)で誕生する。嘉永年間に入り、佐吉は剣の腕を磨くために江戸に移住する。そこで佐吉は、神田於玉ヶ池の玄武館に入門、師範千葉周作のもとで北辰一刀流を学んだ。佐吉の腕前は免許皆伝こそ叶わなかったものの、明治には佃煮製造の傍らで自身の道場を持ち門下生を抱え、諸流剣術試合を開催するなどその腕前は確かなものであった。剣術修行に励む中で佐吉は川合銀と結婚。8男5女を儲けた。後に浅草柳橋(現 東京都台東区柳橋)に住む銀の親戚を頼りに、浅草瓦町(現 東京都台東区浅草橋)に土地を購入した。 江戸で剣術修行に励む佐吉であったが、時代は幕末。揺れ動く世の中を見て、商人に将来性を感じた佐吉は武士の身分を捨て、商人となることを決意する。佐吉は今後の商いを探すため江戸を三日三晩歩き続けた末、江戸四宿の1つである千住の名物『鮒のすずめ焼き』と出会う。当時、江戸市中では鮒のすずめ焼きは売られておらず、佐吉の売る鮒のすずめ焼きは江戸で好評を得た。これにより、佐吉は『鮒屋佐吉』と呼ばれるようになった。安政年間に入り、佐吉は隅田川に趣味の釣りに出かける。その際、暴風雨に遭い佃島に漂着する。漂着した先で地元の漁師が振舞ってくれた「雑魚の塩煮」に感銘を受ける。なお、雑魚の塩煮は安政5年(1858年)に棒手振りの青柳才助によって、「佃」島の塩「煮」から「佃煮」と名付けられる。当時の佃煮は魚貝類を一色単に海水で煮込んだものであった。 雑魚の塩煮に目を付けた佐吉は、当時大変高価であった下総の醤油で具材を煮込むことを考案。さらに、具材は従来のように一色単に煮込まず、種類ごとに煮込むという画期的な佃煮を生み出した。文久2年(1862年)2月15日、佃煮専門店を開業。店名は自身の屋号である『鮒屋』と自身の名前である『佐吉』から『鮒佐』と名付けた。佐吉の生みだした佃煮は江戸で瞬く間に人気を得た。明治年間、佐吉は佃煮を缶詰にして販売することを思いつく。そこで3男 廣吉を3ヶ月間渡米させて、缶詰業の視察を命じる。その後佃煮は缶詰で販売されることはなかった。明治39年(1906年)6月1日75歳没。 佐吉の死後、5男 開之助が佐吉の名前と店を受け継ぐ。それ以後、鮒佐の当主は戸籍上から佐吉の名前を襲名。佐吉の編み出した製法は、160年続く現在も名前と共に変化することなく受け継がれている。現在、佐吉の名前と技は曾孫である五代目 大野佐吉に引き継がれている。
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