大小一揆と賀州三ヶ寺粛清
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「享禄・天文の乱」の記事における「大小一揆と賀州三ヶ寺粛清」の解説
本福寺との争いに勝利した蓮淳は再び中央政界に目を向けた。大永7年(1527年)反本願寺の細川高国に対して三好元長が擁立する細川晴元(澄元の子)が挙兵した際に側近の下間頼秀・頼盛兄弟を晴元側に派遣して支援をした。これに対して晴元は北陸にある高国派荘園の占拠を要望し、蓮淳はこの処理に自分の婿である超勝寺実顕と下間頼秀を任じた。超勝寺は先の本覚寺蓮恵の一件以来、本覚寺と並んで賀州三ヶ寺から圧迫を受けていたが元々は蓮如以前からの由緒のある末寺であり、北陸全域に門徒を抱えており、「北の超勝寺・南の本覚寺」と呼ばれてきた状況は加賀一向一揆後も変わりがなかった。 実顕は法主証如名義で出された舅蓮淳の命令をたてに賀州三ヶ寺に相談もなくこれらの荘園代官を自己の門徒に交代させていった。これに対して、賀州三ヶ寺側の蓮悟・蓮綱(蓮慶)父子・顕誓・実悟は本願寺に抗議するとともに実顕と下間頼秀を糾弾した。そして享禄4年(1531年)閏5月9日、賀州三ヶ寺は「三法令」・「一門一家制」違反などを理由に超勝寺討伐の命令を下した。ところが、超勝寺は先の一件に恨みを抱く本覚寺蓮恵の救援を受けた上、更に北陸各地にいる両寺の門徒を蜂起させたために賀州三ヶ寺は思わぬ苦戦を強いられる。更に急遽山科本願寺に戻った下間頼秀の報告を受けた蓮淳は実顕の行為はあくまでも法主の命令に従ったものであり、その命に逆らうものは法主への反逆であるとして超勝寺と全国の門徒に対して賀州三ヶ寺の討伐命令を証如の名で発したのである。 6月には東海地方・畿内の門徒が山科に結集して、実如の子である実円と下間頼盛に率いられて出陣し、門徒として知られていた飛騨の内ヶ島氏の支援を受けて飛騨山中から加賀に侵入した。これを見た賀州三ヶ寺側の門徒の動揺は激しく、「仏敵」になることを恐れた寝返りが相次いだため、松岡寺と本泉寺はたちまち超勝寺と援軍を主力とする本願寺軍の手に奪われた。これに対して本願寺に打撃を与える機会を狙っていた越前の朝倉孝景が賀州三ヶ寺の支援のために加賀へ出兵。続いて能登畠山氏の一族で蓮能の実兄・畠山家俊も甥である実悟救援を理由に主君畠山義総の許しを得て加賀へ出兵した。名目上の加賀守護で富樫泰高の孫の富樫稙泰・泰俊父子も賀州三ヶ寺側に参戦した。 9月26日、加賀手取川において朝倉教景(宗滴)・賀州三ヶ寺連合軍が本願寺軍を一旦は破るものの、11月の津幡の戦いでは逆に本願寺側の反撃によって畠山家俊らが討ち死にして潰滅し、賀州三ヶ寺最後の光教寺も陥落した。この戦いで蓮綱は幽閉されて間もなく死去、蓮慶は処刑され、蓮悟・顕誓・実悟は加賀を脱出して全国の末寺・門徒に対して引き続き追討命令が下され、6年後の旧賀州三ヶ寺門徒の本覚寺襲撃計画を理由に正式に破門された。富樫稙泰も加賀守護の地位を追われた。 これによって本願寺法主を頂点とする支配体制が完成し、同時に主だった一族をことごとく粛清した外祖父蓮淳が法主・証如を擁して絶対的な地位を築き上げることになる(さすがの蓮淳も兄弟や甥を殺害したり追放したことを後には後悔したらしく、乱から19年後の死の間際になって証如に要望して顕誓・実悟ら生き残りの復帰が認められている)。この内紛は一向一揆同士の戦いに発展した事から、本願寺法主の命令を奉じた超勝寺・本覚寺側を「大一揆」、加賀の国主権限を認められながら反逆者として粛清された賀州三ヶ寺側を「小一揆」と呼ぶ事からこれを「大小一揆」とも呼ばれる。 これによって加賀を初めとする北陸地方の門徒は本願寺派遣の代官による直接支配下に置かれることとなり、天文15年(1546年)にその象徴として加賀金沢に尾山御坊が建立されることになる。なお、この内乱に際して顕誓の兄で安養寺御坊(勝興寺)住持実玄は大一揆に与したために越中は本願寺の直接統治とはならず、勝興寺は瑞泉寺と並んで越中一向一揆の指導者層になっていった。
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