大小ホージャの乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 08:40 UTC 版)
「ブルハーン・アッディーン」の記事における「大小ホージャの乱」の解説
1755年、清の乾隆帝がジュンガルを殲滅すると、ブルハーン・アッディーンとホージャ・ジャハーンは解放され、それぞれカシュガルとヤルカンドの統治を任された。1757年、アマルサナー(モンゴル語版)がジュンガルで蜂起すると、ホージャ・ジャハーンは機に乗じてアク・タクの信徒を集めて蜂起した(大小ホージャの乱(中国語版))。ブルハーン・アッディーンは清朝への恩義からためらったものの最終的に参加した。ホージャ・ジャハーンはクチャを占領し、バートゥル・ハンを名乗った。 1758年秋、清の兆恵(中国語版)が4千の兵を率いてヤルカンドに侵攻したが、ブルハーン・アッディーンとホージャ・ジャハーンに3カ月間包囲された。1759年1月、清の援軍が到達し、兄弟の軍を破った。兄弟はそれぞれカシュガルとヤルカンドに逃れたが、清軍は両城を陥落させた。兄弟はパミール山脈のバダフシャーンに逃れたが、バダフシャーンの支配者のスルタン・シャーは兄弟を捕えて殺害し、清に恭順の意を示した。
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