多党制導入後
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バンダによる独裁政治が長らく維持されていたマラウイであったが、1991年に南アフリカ共和国大統領であったフレデリック・ウィレム・デクラークがアパルトヘイトの法的廃止を決定して以降、マラウイ国内の教会、および国際世論からの圧力増加と国内の民主化要求が高まってきた。この結果、翌1992年にバンダは、複数政党制を新たに導入するか、一党制をこのまま維持するかを国民投票により決めることを発表した。そして1993年6月14日、マラウイ建国以来初の国民投票が無事行われ、国民の3分の2近い得票を得て多党制導入が決定された。その翌年の1994年5月17日、マラウイ初の民主的且つ公平な選挙となる1994年マラウイ総選挙が暫定的な憲法規定の元に行われた。なお、この新たな憲法では、以前に憲法に規定されていたマラウイ会議党に対する特別権限が除かれているものであり、1995年に正式施行された。 選挙の結果、統一民主戦線 (UDF) の指導者であるバキリ・ムルジが、バンダを下して大統領へ当選した。また、所属党の統一民主戦線は、177議席中の82議席を獲得して第一党となったものの単独過半数には届かなかったため、 民主同盟 (AFORD) との連立与党を形成した。なお、1996年にこの連立は解消されたが、政府閣僚のポストを得ていた民主同盟所属の数人の議員は、民主同盟所属を離党して閣僚として残留した。なお、大統領となったムルジは、1995年にミズーリ・リンカーン大学(:en:Lincoln University)から名誉学位を授与された。 1999年6月15日、マラウィは、2回目の民主的な選挙となる1999年マラウイ総選挙を実施した。ムルジは大統領二期目の就任を目指して出馬したが、この選挙では民主同盟がマラウイ会議党と選挙協力を行い、対立関係となった。選挙の結果、ムルジが過半数の票を獲得して2004年までの任期で大統領の二期目を務めることとなった。 この1999年の選挙は、マラウイ国内に内戦の瀬戸際間近の争いを生じる結果となった。トゥンブカ族やンゴニ族、ンコンデ族といった北部で優勢なキリスト教徒の部族は、南部出身でイスラム教徒のムルジが大統領へ再任されたことに対し、強い不満を持った。その結果、ムルジの出身部族であり、イスラム教徒であるヤオ族へのテロ運動が行われ、数百万ドル相当のヤオ族の資産が盗まれたり破壊されたりしたほか、200箇所近いモスクが放火の被害を受けた。
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