多党制の導入
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1938年11月10日にムスタファ・ケマル・アタテュルクが死去すると、イスメト・イノニュが新大統領となり、独裁体制を引き継ぐ。 しかし、第二次世界大戦にともなう準戦時体制はいまだ脆弱なトルコ経済を圧迫し、共和人民党の独裁体制に対する不満が高まっていた。 1946年には共和人民党内の改革派が離党し、民主党を結成した。同年に最初の多党制選挙が実施され、民主党は結党直後で選挙準備不足があきらかであったにもかかわらず62議席を獲得した。さらに1950年の選挙では408議席を獲得して過半数を大幅に上回る圧倒的な議席数を獲得し、その後10年間にわたって過半数を維持しつづけた。 こうしてトルコ議会に多党制が定着したが、その後期には経済政策の失敗から国政を混乱させた民主党長期政権は、今度は失点を糊塗するために独裁体制構築に向かい、野党の共和人民党を抑圧する事態となった。1960年、ついに軍部がクーデターを敢行し、民主党政権を打倒した。
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