外国人たちのモンパルナス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「モンパルナス」の記事における「外国人たちのモンパルナス」の解説
モンパルナスは1900年代までは、北隣の大学地区、カルチェ・ラタンに通う学生の下宿や荒地が広がっていた場所で、家賃や物価はじめ、何もかもが安いさびれた郊外であり、区画整理が進んで市街地化した1900年代後半になっても基本的な変化はなかった。世界中から集まった金のない画家、彫刻家、小説家、詩人、作曲家たちは、安い家賃や物価のため、また創造的な環境に身を置いて成功のチャンスを掴むため、「ラ・リューシュ(La Ruche)」のような集合住宅に住み、芸術家のコミューンを作り上げた。ラ・リューシュではマルク・シャガール、アメデオ・モディリアーニ、シャイム・スーティンらが水道や暖房のないアトリエで、ネズミやシラミに苦しみながら、食べるために作品をわずかな金で売っていた。ジャン・コクトーはかつて、モンパルナスでは貧困すら贅沢だと言った。キュビスムやフォーヴィスムを支援したヘンリー・カーンワイラーなどの画商に見出され、売り出されたこれらの芸術家の作品は、今日では数億円の値で取引されるほどになっている。 モンパルナスには全世界から芸術家がやってきた。パリのアメリカ人の人数は、1921年から1924年の間に6千人から3万人に増加した。他にもロシア、ヨーロッパ各地、カナダ、メキシコ、チリ、そして日本のような遠い地からも集まっている。パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、マルク・シャガール、モイーズ・キスリング、ニーナ・ハムネット、フェルナン・レジェ、シャイム・スーティン、アメデオ・モディリアーニ、マルセル・デュシャン、コンスタンティン・ブランクーシ、マヌエル・オルティス・デ・ザラテ、アンリ=ピエール・ロシェ、マリー・ヴァシリエフ、マックス・ジャコブ、ディエゴ・リベラ、アルベルト・ジャコメッティ、ヘンリー・ミラー、ジャン=ポール・サルトル、サルバドール・ダリ、サミュエル・ベケット、ジョアン・ミロ、アンドレ・ブルトン、藤田嗣治、高崎剛、ギヨーム・アポリネール、ジュール・パスキン、岡本太郎、清水多嘉示村井正誠、海老原喜之助、大津田正豊、津田正周、長谷川三郎、矢橋六郎、菅野廉、ゲルダ・タローらがモンパルナスに集まっている。エドガー・ドガも晩年はモンパルナスに住んだ。 モンパルナスの芸術家コミューンは、独創性のある者はどんな変人であれ受け入れられた。新しくやってきて不安に感じている者も、先に来ていたメンバーに遠慮なく迎え入れられた。藤田嗣治が1913年、誰も知り合いのいないモンパルナスに日本からやってきたとき、彼は暮らし始めたアパートで、来仏前には名前を聞いたこともなかったようなスーティン、モディリアーニといった同居人の芸術家たちと一晩で知り合いになり、一週間以内にアパートに出入りするフアン・グリス、パブロ・ピカソ、アンリ・マティスらとも友人になった。1914年、イギリスの画家ニナ・ハムネットがモンパルナスに着いた最初の晩、カフェ「ラ・ロトンド」の隣のテーブルで微笑んでいた男が愛想良く「モディリアーニ、画家でユダヤ人です」と自己紹介した。彼女たちは友人同士になり、後にハムネットは、あるときモディリアーニから上着とコーデュロイのズボンを借りて、二人でラ・ロトンドに行き、通りで一晩中踊り明かしたことを回想している。 モンパルナスが、創造的かつボヘミアン的な環境で暮らして作品を作りたいという人々を引き寄せていた頃、亡命し放浪する政治家たちもモンパルナスに隠れ住んでいた。たとえばウラジーミル・レーニン、レフ・トロツキー、ポルフィリオ・ディアス、シモン・ペトリューラらの住処もモンパルナスにあった。
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