外国人とのトラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:13 UTC 版)
長崎商館長(カピタン)が江戸参府の際(1826年)、北斎に日本人男女の一生を描いた絵、2巻を150金で依頼した。そして随行の医師シーボルトも同じ2巻150金で依頼した。北斎は承諾し数日間で仕上げ彼らの旅館に納めに行った。商館長は契約通り150金を支払い受け取ったが、シーボルトの方は「商館長と違って薄給であり、同じようには謝礼できない。半値75金でどうか」と渋った。北斎は「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。」とすこし憤った。シーボルトは「それならば1巻を買う」というと、通常の絵師ならそれで納めるところだが、激貧にもかかわらず北斎は憤慨して2巻とも持ち帰ってきた。当時一緒に暮らしていた妻も、「丹精込めてお描きでしょうが、このモチーフの絵ではよそでは売れない。損とわかっても売らなければ、また貧苦を重ねるのは当たり前ではないか。」と諌めた。北斎はじっとしばらく黙っていたが「自分も困窮するのはわかっている。そうすれば自分の損失は軽くなるだろう。しかし外国人に日本人は人をみて値段を変えると思われることになる。」と答えた。 通訳官がこれを聞き、商館長に伝えたところ、恥じ入ってただちに追加の150金を支払い、2巻を受け取った。この後長崎から年に数100枚の依頼があり、本国に輸出された。シーボルトは帰国する直前に国内情報を漏洩させたことが露見し、北斎にも追及が及びそうになった(シーボルト事件)。 オランダ国立民族学博物館のマティ・フォラーによると、1822年のオランダ商館長ブロムホフが、江戸参府の際日本文化の収集目的で北斎に発注し4年後受け取る予定としたが、自身の法規違反で帰国。後継の商館長ステューレルと商館医師シーボルトが1826年の参府で受け取った。現在確認できるのは、オランダ国立民族学博物館でシーボルトの収集品、フランス国立図書館にステューレルの死後寄贈された図だという。西洋の絵画をまねて陰影法を使っているが絵の具は日本製(シーボルトコレクションでは紙はオランダ製)である。
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