地方史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 学問 > 歴史 > 歴史 > 地方史の意味・解説 

ちほう‐し〔チハウ‐〕【地方史】

読み方:ちほうし

ある地方歴史特定の地域対象として綴られ歴史


郷土史

(地方史 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 00:11 UTC 版)

郷土史(きょうどし、英: Local history)とは、ある一地方の歴史調査研究していく歴史学や刊行物。郷土史の研究者郷土史家または郷土史研究家と呼ぶ。

日本語の「郷土」の語自体は、中国の古典『列子』『晋書』に淵源をもつ漢語である[1]

欧州の郷土史学

教育学者であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチは、目的論的立場と方法論的立場の2つの方向性から郷土に関して論じた[1]。このうち目的論的立場を継承したのがエドゥアルト・シュプランガーであり、多義的であった郷土概念に教育学的意義を与えたといわれている[1]

第一次世界大戦に敗れた後のドイツヴァイマル共和政)では国家復興の気力の養成として郷土科(ハイマートクンデドイツ語版、Heimatkunde)が設けられた[1]。郷土科はヴァイマル期初期に設置された基礎学校の科目の一つである[1][2]。しかし、1960年代後半から1970年代初頭の教育改革論議において、それまでの郷土科教育は非現代的な教育内容、不合理な郷土概念像、自然科学との貧弱な繋りなどが批判を受けた[1]

日本の郷土史学

日本の学校教育では1881年明治14年)の小学校教則要綱地理科で初めて「郷土」の語が使用された[1]。さらに大正時代には郷土科が設置されたが、本格的な郷土教育は1929年昭和4年)に始まった[1]。当時の日本は昭和恐慌の直後で、ドイツの郷土科を参考に農村の自立更生を目的とした郷土教育が強調された[1]

太平洋戦争後、排他的な愛国教育との結びつきに対する反省から、郷土史は社会科という教科の中で組み込まれた[3]。昭和40年代になると高度経済成長とともに客観的な知識の習得が推奨されるようになり、小・中学校社会科『学習指導要領』でも「郷土」が曖昧な概念として避けられ「地域」に置き換えられるようになった[1]。このような動きのほか「郷土」は流動的で曖昧な概念で避けるべきという郷土回避論もみられた[1]。しかし、郷土を出発点として、様々な教科に発展させようと試みる「郷土教育」は残り続けている[3]

現在、全国各地に「○×郷土史研究会」「○×地方史研究会」「○×地域史研究会」と名乗る研究団体が多数存在するが、名称の違いはその会が成立した時期によることが多く、研究内容、目的、手法が違うということはあまりない。また、それらの会の多くは、地方大学歴史学者が主体となり、その教え子の地元社会科教員学生地方公共団体社会教育担当職員、地方博物館学芸員などが構成員となっていることが多い。また、これらの研究者や研究会が自治体史、小学校の社会科で使用される地域副読本などの編纂、執筆を行っていることが多い。

問題点

研究成果の信憑性

在野の郷土史家は、研究上のルール[注 1]を理解していなかったり、学術研究に必要な能力[注 2]を欠いていたりする者が多く、その研究成果が疑問視される場合も少なくない。

馬部隆弘は在野の郷土史家からのTweetを分析し、「議論に根拠がない」「史料の一部分しか読めていない」「批判と誹謗中傷を理解していない」「歴史研究でありながら、くずし字の読解能力がない」といった問題点を抽出した[4]

富山大学の大野圭介は、日本古代の郷土史研究を例に取り、信憑性のない研究の特徴として「著者が雑誌に発表した論文がない」「著者がその分野について専門的に学んだ経験がない」「やたらセンセーショナルな文句が多い」「論調が攻撃的である」「引用文献がない」といった事例を挙げ、「そのような信用できない"研究成果"は単なる「研究ごっこ」に過ぎない」と批判し、「(未熟なアマチュアは)史料を読むための『技術』を習得しないまま、いきなり大それたことをしようとする」「大半のアマチュアは『プロが積んだ努力を軽蔑し、自分勝手なルールを振りかざす』から(プロの学者から)無視される」と述べている[5]

白峰旬は、ある郷土史家の自費出版物を例に取り、「史料の原文を誤読している箇所や、史料の内容を現代語訳して解説を加える際に恣意的な拡大解釈をした箇所があり、見解として成立しない点が多くあること」「特に新説を発表する際は、どこまでが先行研究で指摘されていることで、どこからが自身のオリジナルの考え(新説)なのかを線引きして提示する必要があるが、それが出来ていないこと」などの問題点を指摘している[6]

学術的な裏付けがない郷土史研究が「ロマンがある」などの理由から大々的に取り上げられ、地域の宣伝や町おこしのために利用されている事例も確認されている[7][8]馬部隆弘は、自身の体験談として、かつて大阪府枚方市が発行した小学校副読本の内容に偽史が含まれると指摘したところ、編集担当者に「史実でなくてもいいから、子供たちが地元の歴史に関心を持つことのほうが大事」と返答されたと述べた[9]

一方で、小二田誠二は、郷土史は「科学的な検証に耐えられないものも含めて、そこに生きる人たちのアイデンティティの表出である」と定義し[3]、「史実の検証は大事だけれど、そこに「正しい学問」の介入できない領域が存在すること」を認めておくことが重要と述べている[3]

自治体史における著作権

地元の歴史を、地方自治体やその教育委員会自治体史として刊行することも多く、市町村合併や研究の進展、現代までの時代経過を反映させるため数十年を経て改定されることもある。自治体が執筆者に著作権の譲渡を求めて反対されたり、古い自治体史では著作権の所在が不明になっていたりする問題が起きている[10]

脚注

注釈

  1. ^ 例えば盗用剽窃の禁止など。
  2. ^ 例えば研究史の整理史料批判など。

出典

参考文献

関連項目


地方史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 14:01 UTC 版)

マイン=シュペッサルト郡」の記事における「地方史」の解説

現在のマイン=シュペッサルト郡地域は、1800年以前大部分ヴュルツブルク司教領ドイツ語版英語版)、一部マインツ大司教領属していた。マインツ選帝侯部分1803年からアシャッフェンブルク侯国領とされ、1814年からバイエルン王国となった1804年にラントゲリヒト・ホムブルク(所在地マルクトハイデンフェルト)が設けられ1840年所在地にちなんでラントゲリヒト・マルクトハイデンフェルトと改名された。1804年には、ラントゲリヒト・ゲミュンデン、ラントゲリヒト・カールシュタット、ラントゲリヒト・アルンシュタインも設けられた。また、1814年にラントゲリヒト・ロールとラントゲリヒト・オルプが設けられた。1852年レーヴェンシュタイン侯のローテンフェルス領主行政区からラントゲリヒト・ローテンフェルスが設けられその1年後には同じくレーヴェンシュタイン侯のクロイツヴェルトハイム領主行政区からラントゲリヒト・シュタットプロツェルテンも設けられた。これらのラントゲリヒトはいずれもウンターマインクライスの下位位置づけられた。ウンターマインクライスは1838年からウンターフランケン改名された。

※この「地方史」の解説は、「マイン=シュペッサルト郡」の解説の一部です。
「地方史」を含む「マイン=シュペッサルト郡」の記事については、「マイン=シュペッサルト郡」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「地方史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



地方史と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「地方史」の関連用語

地方史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



地方史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの郷土史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマイン=シュペッサルト郡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS