地域制と国際性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:04 UTC 版)
この地域の美術作品は、石窟寺院に残されていた壁画や塑像、都市遺跡、寺院址、古墓などからの出土品が主体である。これらの文化遺産はその多くがこの地域の歴史の変遷のなかで忘れ去られ、あるいは砂漠に埋もれていたものであり、19世紀末から20世紀初頭にかけて西欧を主とする外国の調査隊によって見出されたものであった。現存する絵画遺品は石窟壁画が主であるが、板、紙、絹などに描かれた絵画もダンダン・ウィリク、アスターナなどから出土している。壁画は岩壁または煉瓦壁に植物繊維、羊毛、動物の糞などを混ぜた粘土を塗り、さらに漆喰の下地を作った上で描いたものである。彫刻は土地柄、土製(塑像、テラコッタ)のものが多く、木造、銅造の遺品は少ない。ガンダーラでは石造彫刻が盛んに作られている。 中央アジアの美術の特色はその国際性にある。東の中国、西のペルシャに挟まれた中央アジアにはシルクロードと呼ばれる東西の交通路が通じ、人々や物資が行きかうとともに、古来多くの民族や文化がこの地で興亡を繰り返した。こうしたことから、中央アジアは「文明の十字路」とも称されている。この地域で制作された美術作品にも、土着の要素とともに、ヘレニズム、メソポタミアなどの西方由来の文化、中国、インドなど周辺地域の文化の技法やモチーフが混淆している。 また、宗教美術が多くを占めるのも中央アジア美術の特色である。イスラム化以前の中央アジアでは、仏教、ゾロアスター教、マニ教、景教(ネストリウス派キリスト教)などの宗教が信仰されたが、現存する遺跡、壁画、彫刻などは仏教関係のものが主である。タラス川の戦い(751年)で唐がイスラム勢力のアッバース朝に敗れて以後、西トルキスタンでは唐の勢力が後退し、イスラム化が進行した。テュルク系のカラ・ハン朝は10世紀半ばにイスラムに改宗し、10世紀末には東西トルキスタンを支配する勢力となったが、このことにより、東トルキスタンでも次第にイスラム化が進行した。 本項では原則として、中央アジアのイスラム化以前の美術を扱う。イスラム帝国の影響下の美術については「イスラム美術」の項を参照のこと。
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