地下室(アンダークロフト)とガーネット神父の説得
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「火薬陰謀事件」の記事における「地下室(アンダークロフト)とガーネット神父の説得」の解説
新たな仲間が加わった3月25日には、ウェストミンスター宮殿のジョン・ホワイニアードが所有する地下室(アンダークラフト(英語版))の使用権利を契約した日でもあった。17世紀初頭のウェストミンスター宮殿は、中世に建てられた旧王宮の会議室や礼拝堂、ホールを中心に建物が密集しており、議場や様々な王立裁判所が設置されていた。旧王宮には簡単に行き来きすることができ、商人や弁護士、様々な人々が、宮殿内の宿泊施設や商店、酒場などで働いたり寝泊りしていた。ホワイニアードの建物は、貴族院と直角に並び、パーラメント・プレイス(議会広場)と呼ばれる通路を挟んで、議会階段とテムズ川につながっていた。当時、地下室は一般的な設備であり、食料や薪などさまざまなものが保管されていた。ホワイニアードの地下室は、宮殿1階の貴族院の真下に位置し、かつての旧王宮の厨房の一部だと考えられている。当時は使用されておらず不衛生な場所であったが、一味の計画には最適であった。フォークスによれば、最初に20樽の火薬を運び込み、続いて7月20日に16樽を持ち込んだという。火薬の売買は政府の専権事項であったが、違法な販売ルートから容易に入手することができた。 火薬陰謀事件に巻き込まれることとなったイエズス会のヘンリー・ガーネット神父が、ケイツビーと会話したのは6月の第2週のことであった。後にガーネットが説明したところによれば、何気ない会話の中で、ケイツビーから「罪ある者となき者をまとめて殺す」ことの道徳性について尋ねられ、ガーネットは、カトリックの神学に基づいて、戦争中には罪のない人々が敵と一緒に殺されることがよくあると答えたという(歴史家兼作家のアントニア・フレーザーは、ガーネットはフランドル地方での話だと誤解したと推測している)。次に2人は7月にエセックスのフレムランドで再会し、この時はガーネットは反乱を禁じる教皇の書簡を見せてケイツビーを戒めたと述べている。この直後に、ガーネットはイエズス会のオズワルド・テシモンド神父からケイツビーから陰謀の告白を受けたことを報告された。ここで問題になったのは、ガーネットはケイツビーの告白は告解(ゆるしの秘跡)にあたると判断したことであり、告解であるならば守秘義務が発生することであった。よって、ガーネットはテシモンドから聞いた内容を当局に通報することはおろか、当事者のケイツビーにすら直接問いただすことができなかった。7月24日、ガーネットとケイツビーはエンフィールド・チェイス(英語版)にある裕福なカトリック教徒アン・ヴォークスの家で3回目の話し合いを行うこととなった。この時、ガーネットは自分が陰謀の実態を知らない前提で、彼にそれを思い留まらせようとしたが、無駄に終わった。ガーネットはイエズス会総長であるクラウディオ・アックアヴィーヴァ(英語版)に手紙を書き、イングランドで反乱が起こることの懸念を伝えた。また、彼を通して「個人が反逆罪を犯したり、君主に対して武力を行使する危険性」としてローマ教皇に武力行使を禁止する声明を出すことも求めた。ただ、自分が計画を知っていることを隠そうとして、その対象をウェールズの反逆者向けだと示唆させることを提案してしまった。 7月28日、ペストの脅威は去らず、開会は11月5日火曜日まで再度延期された。フォークスは一時的に国を離れた。一方、国王は夏の間、都市部から離れて狩りに興じていた。都合の良い場所に滞在し、時には著名なカトリック教徒の邸宅に泊まることもあったという。ガーネット神父は陰謀の危機は去ったと確信し、巡礼の旅へと出た。
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