国際TEE
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/07/01 16:18 UTC 版)
「ブラウエル・エンツィアン」の記事における「国際TEE」の解説
1968年のヨーロッパ時刻表会議では、ミュンヘンとイタリアのミラノを結んでいたTEEメディオラヌムに使用されているイタリア国鉄の気動車が他のTEE車両と比べ設備面で見劣りすることが問題視された。このとき西ドイツ国鉄はメデイオラヌムを廃止し、ブラウエル・エンツィアンをハンブルク - ミラノ間に延長することを提案したが、イタリア国鉄の反対により実現しなかった。 これに代わって、1969年からはブラウエル・エンツィアンの車両の一部をオーストリアへ直通させることになった。同年夏ダイヤ(6月1日)ではミュンヘンからザルツブルク、タウエルントンネル、フィラッハを経てクラーゲンフルトへの直通が行なわれた。ミュンヘン - クラーゲンフルト間はTEEではなく、西ドイツ国内では特急列車(F-Zug)、オーストリアでは急行列車(Express)の扱いであり、いずれも二等車を編成に含んでいた。1969年 - 70年冬ダイヤではクラーゲンフルトへは乗り入れず、一部の日のみクーフシュタイン経由ツェル・アム・ゼーまで乗り入れた。このときもはミュンヘン - クーフシュタイン間は特急列車、クーフシュタイン - ツェル・アム・ゼー間は急行列車扱いであった。 1970年夏ダイヤ(5月31日改正)ではクラーゲンフルトまでTEEとして乗り入れるようになった。また途中のローゼンハイムで一部の車両を切り放してツェル・アム・ゼーまで直通させた。ただしローゼンハイム - ツェル・アム・ゼー間はTEEではなかった。 1970年 - 71年冬ダイヤ(9月27日改正)では以下のように期間によって運行区間が代わった。この時からツェル・アム・ゼーまでもTEEとして運行されるようになっている。 期間運行区間9月27日 - 10月24日 ハンブルク - クラーゲンフルト 10月25日 - 12月17日 ハンブルク - ミュンヘン 12月18日 - 4月17日 ハンブルク - クラーゲンフルト、ツェル・アム・ゼー(ローゼンハイムで分割・併合) 4月18日 - 5月22日 ハンブルク - ザルツブルク 1971年、1972年も、夏ダイヤ期間はクラーゲンフルト発着であり、冬ダイヤ期間は1970年-71年冬と同様のパターンで発着駅が変わった。クラーゲンフルト方面でもツェル・アム・ゼー方面でも、オーストリア国内での停車駅はTEEとしては異例に多く、ほとんど各駅停車のようになる区間もあった。 1971年夏ダイヤ改正(5月23日)でTEEの列車番号の付け方が改定され、ブラウエル・エンツィアンの列車番号はそれまでハンブルク行が奇数(TEE 81)、ミュンヘン、オーストリア方面行が偶数(TEE 80)だったのが逆(ハンブルク行 : TEE 90, ミュンヘン方面行 : TEE 91)になった。 1971年冬ダイヤ改正(9月26日)で西ドイツ国鉄は4系統からなるインターシティ(IC)網を創設し、TEEもインターシティ網の一部に位置づけられることになった。ブラウエル・エンツィアンはハノーファー - ミュンヘン間においてIC4号線の列車の一つとされた。IC4号線の北端は本来ブレーメンであり、ハンブルク - ハノーファー間はIC3号線(ハンブルク - バーゼル)の一部であるが、ここではハノーファー以南でIC3号線経由となるTEEローラント(ブレーメン - バーゼル - ミラノ)とハノーファーで入れ替わる形で運転された。ハノーファー中央駅でローラントと相互に接続するほか、ヴュルツブルク中央駅ではIC2号線(ハノーファー - ドルトムント - ケルン - フランクフルト・アム・マイン - ヴュルツブルク - ミュンヘン)のインターシティ「ニンフェンブルク」(南行)、「ヘレンハウゼン」(北行)と相互に接続していた。なおヴュルツブルク - ミュンヘン間では本来IC4号線がニュルンベルク、アウクスブルクに停車するジグザグ状の経路をとるのに対し、IC2号線はそのどちらも経由しない最短経路をとっていたが、ブラウエル・エンツィアンは従来通りアウクスブルクには停車するもののニュルンベルクは通らず、代わってニンフェンブルク、ヘレンハウゼンがニュルンベルク経由となっていた。 冬季のツェル・アム・ゼー発着の編成は乗車率が低く、さらにローゼンハイムでの分割・併合作業に時間がかかることから、西ドイツ国鉄は1972年にはツェル・アム・ゼーへの分岐を打ち切ろうとした。オーストリア国鉄の主張により1972年-73年冬ダイヤでは前年同様に分岐が行なわれたが、北行列車の併合駅はミュンヘン中央駅に変更された。ミュンヘンはもともと10分停車であり、併合作業のために停車時間が延びてもそれほど影響はないとされたためである。しかし1973年-74年冬ダイヤ期間以降はツェル・アム・ゼーへの乗り入れは行なわれず、クラーゲンフルトまたはザルツブルクへの延長のみが行なわれた。
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