国際YMCAトレーニングスクール時代
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「石川源三郎」の記事における「国際YMCAトレーニングスクール時代」の解説
1890年(明治23年)9月、マサチューセッツ州スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクール、一般事業担当主事養成科クラス(1892年卒業クラス)に入学。 翌1891年(明治24年)12月21日午前11時30分、同校の体育館で行われた世界初のバスケットボールのプレーにジェームス・ネイスミスが指導する一般事業担当主事養成科クラスの18人の学生のひとりとして参加した。 この新しいスポーツは、体育担当教官ジェームス・ネイスミスによって考案されたもので、「冬の室内で行える競技。しかも面白く、覚えるのもプレーするのも簡単なもの」という、当時国際YMCAトレーニングスクールの体育部主事養成科長だったL.H.ギューリックの課題に応えたものだった。ゲームはゴールキーパー×1、ガード×2、センター×3、ウイング×2、ホーム×1の各チーム9人制で行なわれた。この構成はラクロスを参考にしたものだという。また、ゴールには当初箱を使う予定だったが、管理人が代わりに桃の篭を持ってきたため、ネイスミスはこの篭を10フィートの位置に打ちつけて使った。 後に学生の一人であるフランク・メーハンがこの競技の名前を考案者にちなんだ『ネイスミス・ボール』にしようと提案したが、当のネイスミスが反対した。結局、『バスケット・ボール』という名に落ち着いた。現在残されている最初のゲーム風景のスケッチは石川源三郎によって描かれたものである。
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