国外生活
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「セルゲイ・プロコフィエフ」の記事における「国外生活」の解説
エンジェル島の入国管理官の審査から解放されて、1918年8月11日にサンフランシスコに到着すると、プロコフィエフは間もなくセルゲイ・ラフマニノフら、著名なロシアからの亡命者と比較されるようになる。デビューを飾ったニューヨークでのソロ・コンサートはいくつかの契約に結び付いた。またシカゴオペラ協会(英語版)の音楽監督であったクレオフォンテ・カンパニーニ(英語版)との間に、新作オペラ『3つのオレンジへの恋』の上演を行うという契約を結んだ。しかしカンパニーニが病に倒れて他界し、初演は延期となる。この延期もオペラにまつわるプロコフィエフの不運のひとつであった。このオペラには多くの時間と労力が注がれていたため、この失敗は彼のソリストとしてのキャリアも犠牲にした。気づけばたちまち経済的困窮に陥っており、1920年4月には失敗してロシアに戻りたくないと、パリへ向かって旅立っていた。 パリではディアギレフのバレエ・リュスとの間で契約を再確認した。また、ピアノ協奏曲第3番などの未完成のままになっていた旧作を完成させた。『3つのオレンジへの恋』は最終的に1921年12月30日にシカゴで作曲者自身の指揮により初演されることになった。ディアギレフはこのオペラに興味を示し、1922年6月にプロコフィエフにピアノ伴奏版を演奏するように依頼する。この時には2人とも『道化師』再演のためにパリにいたため、プロコフィエフは上演の可能性について考えられるようになった。しかし、オーディションの場にいたストラヴィンスキーは1幕より後を聴くのを拒否してしまった。「オペラを作曲して時間を浪費している」という彼の非難に対し、プロコフィエフはストラヴィンスキーは「自身が誤りに対する耐性がないのだから、芸術の常道を主張できる立場にない」とやり返した。プロコフィエフによればストラヴィンスキーは「怒り心頭に発し」て「殴り合いに発展しそうだった我々は辛くも離れることができた」という。その結果、「我々の関係は張りつめたものとなり、数年間にわたってストラヴィンスキーは私に批判的な態度を取った。」 1922年3月には母とともにバイエルンのアルプス山あいにある小村エッタル(英語版)に移り住み、1年以上の期間を費やしワレリー・ブリューソフの同名の小説(英語版)に基づくオペラ『炎の天使』に集中した。この頃になるとプロコフィエフの音楽はロシア国内にファンを獲得しており、帰国の誘いも受けるようになっていたが、彼はヨーロッパ残留を決意する。1923年にはスペイン人の歌手であるカロリナ・コディナ(1897年-1989年、Lina Lluberaとして活動)と結婚、その後パリへと戻った。 パリでは交響曲第2番などの複数の作品が演奏されたが反応は熱のこもらないもので、プロコフィエフは自分が「どうやらもはや大きな評判にはならない」と感じ取るようになる。それでもこの交響曲を耳にしたことでディアギレフはバレエ『鋼鉄の歩み』を委嘱することになったとみられる。ソ連の工業化を描写することを意図したモダニストのバレエ作品であった本作は、パリの聴衆と評論家から熱狂的に迎えられることとなった。 1924年頃、プロコフィエフはクリスチャン・サイエンスに招かれた。彼は健康と気性の荒さに役に立つと信じてその教えを実践するようになった。伝記作家のサイモン・モリソンによれば、その後生涯を通じて教えに忠実であり続けたという。 プロコフィエフとストラヴィンスキーは友好関係を回復する。しかし、プロコフィエフは当時の新作であった八重奏曲やピアノと管楽器のための協奏曲にみられるようにストラヴィンスキーが「バッハを様式化すること」を特に毛嫌いしていた。ストラヴィンスキーの側では、プロコフィエフを現代最高のロシアの作曲家であり、自分に続く者であると評していた。
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