国会答弁、海外公演の成功
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「出羽ノ花國市」の記事における「国会答弁、海外公演の成功」の解説
1957年3月2日、衆議院予算委員会において、公益法人たる相撲協会のあり方について疑義が出され、世論が喚起された。続く4月3日の衆議院文教委員会では参考人として呼ばれた協会理事長である出羽海は病気療養と称して欠席し(出羽海はその後5月4日に割腹自殺未遂を図る騒ぎを起こす)、代わって武蔵川らが出席する。委員会の冒頭、「相撲専修学校」の設置が依然為されていないことに対する答弁はしどろもどろであったが、武蔵川は事前に8項目にわたる改善案を提示していて、その後の質問に対してはそつなく意見を述べ、今後も財団法人として協会を続けていく決意を示した。質疑の最後、質問に立った柳田秀一は武蔵川に対し「あなたの答弁を聞いておると、同僚諸君は大臣以上だと言っておる。おそらく普通の人で青いものをつけて国会議員の前に参考人として呼ばれますと上るものです。そしていいことを言ってみたり、答弁もなかなかうまくいきませんが、あなたの答弁を聞いてみると大臣以上です。実にりっぱな答弁をされておる。むしろあやまって相撲界に入られたのか惜しいくらいです。」「非常にりっぱな、むしろ相撲界に珍しい優秀な頭脳明晰な方」と述べている。 出羽海は1960年11月に急死したことで、年寄名跡を「出羽海(8代)」に変更して部屋を継承した。この際、先代は九重に部屋を継承させたかったと言ったようだが、現役時代の最高位が低かった武藏川が部屋を継承したことで、後の問題への火種となった。継承直後は佐田の山晋松に次ぐ関取がなかなか出ていない状況のため、幕下の古参力士に対して「うちは下宿屋じゃないんだぞ」と通達して廃業(リストラ)させ、その結果として北の富士勝昭、福の花孝一など数人が十両昇進を果たした。北の富士の著書によると、「稽古中に(武藏川が)千円札の山をそばに置いて『勝った方にやるぞ』と言った。これで頑張って稽古に励んだ」「親方から100万円(現在の500万円に相当)ほどの借金をしたが、九重部屋に移籍する時に返しに行ったら全額帳消しにしてもらった」など、先代より気前の良いところがあり、部屋の食事事情も改善されたという。その一方で、力士がタニマチに食事などを御馳走になることを好ましく思っていなかったという証言も残る。 1965年には、日本相撲協会として戦後初の海外公演となるソビエト連邦公演の団長に就任し、モスクワにあるボリショイ劇場とハバロフスクのレーニンスポーツ宮殿での興行を成功させた。 明晰な頭脳と雄弁ぶりから、「角界の代議士」と言われることもあり、また一方では「力士になっていなかったら、大実業家になっていたのではないか」という声もあった。これによって生まれた才覚を勤勉と努力により開花させ、大相撲の為に余すところなく発揮した。
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