回復した運勢
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1919年のはじめ、シベリウスは薄くなった頭を丸めて印象を変えようと躍起になっていた。6月には1915年以来はじめてフィンランドを離れてアイノとともにコペンハーゲンを訪れると、交響曲第2番を演奏して成功を収めた。11月に交響曲第5番の最終稿を指揮し、聴衆から幾度にもわたる喝采を浴びた。同年の暮れには彼は既に交響曲第6番の仕事を進めていた。 1920年、手の震えが大きくなる中、ワインの力を借りつつスオメン・ラウル合唱団のために詩人のエイノ・レイノの詞を基にカンタータ『大地への賛歌』を作曲、また『抒情的なワルツ』を管弦楽編曲した。シベリウスは1920年12月の誕生日に63,000マルクの寄付を受け取った。この大金はテノールのワイネ・ソラ(フィンランド語版)がフィンランドでの事業により築き上げたものだった。資金の一部は借金の返済に使われたが、ヘルシンキで行われた過度な祝賀会は一週間に及んだ。 1921年のはじめにはイングランドへの演奏旅行が大きな成功を収めた。シベリウスはイングランド国内の複数の都市で第4交響曲、第5交響曲、『大洋の女神』そしていつでも人気が高かった『フィンランディア』、『悲しきワルツ』を指揮して回った。そのすぐ後、今度はノルウェーで第2交響曲と『悲しきワルツ』を指揮している。彼は過労にあえぎ始めていたが評論家の意見は前向きなままだった。4月にフィンランドへ帰国すると、Nordic Music Daysにて『レンミンカイネンの帰郷』と第5交響曲を披露する。 1922年の初頭に頭痛に苦しんだシベリウスは眼鏡をかけることを決意する。しかし彼はその後も写真撮影の際にはいつも眼鏡を外していた。7月に弟のクリスティアンが永眠し、シベリウスは悲しみに暮れた。8月にフィンランドのフリーメイソンに加入してその儀式のための音楽を作曲、1923年2月には交響曲第6番が初演される。エーヴェルト・カティラは「純粋な田園詩」だとしてこれを称賛した。年の暮れにはストックホルムとローマで演奏会の指揮台に上ったが、前者が大絶賛を浴びた一方で後者には様々な評価がついた。続いてヨーテボリに向かった彼が演奏会場に到着した時には暴飲暴食し放題で苦しい状態だったにもかかわらず、迎えた聴衆は恍惚となった。飲酒を続けてアイノを狼狽させながらも、シベリウスは1924年のはじめにはどうにか交響曲第7番の完成にこぎつけた。3月に『交響的幻想曲』という標題の下、ストックホルムで行われた第7交響曲の最初の公開演奏は好評を博した。同交響曲は9月の終わりにコペンハーゲンで開催されたコンサート・シリーズにおいてそれを遥かに上回る喝采を浴びた。シベリウスはダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与った。 この頃の多忙な活動は彼の心臓と神経を痛めていたため、同年の残り大半を休暇に充てることにした。小規模な作品をいくつか作曲しつつ、彼は次第にアルコールに頼るようになっていく。1925年5月、デンマークの出版者のヴィルヘルム・ハンゼンとコペンハーゲンの王立劇場がシェイクスピアの『テンペスト』上演のための付随音楽を作曲しないかと声をかけた。シベリウスは1926年3月の初演に十分余裕をもって作品を書き上げた。コペンハーゲンでの評判は上々だったが作曲者自身はその場に居合わせなかった。
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