回復と改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)
当時のローマは、王政ローマ時代の支配者であるエトルリア人がローマに強大な防御力を与えないため、かつてあった城壁を徐々に取り除いたせいで有効な壁が全くなかったと推測される。包囲されローマ全体がほぼ破壊されたことから、ローマ人はセルウィウス城壁を強化した。 また、軍隊組織の再編成も開始された。ギリシア風のファランクス(密集陣形)用の槍をやめ、より実用的で標準化した鎧と武装を採用した。貴族階級を代表していた主要な歩兵の多くが戦死したため、ローマ社会の重要なメンバーを最前線にさらす必要はないという風潮が生まれた。このため、トリアリイ (triarii) という軍団が結成されるようになり、最後列を担うようになった。 多くの歴史家は、このセノネス族の侵入からローマは兵器技術と戦術の重要さを学んだと推測している。1つの部族ではあるが、セノネス族はより大きなケルト人(またはガリア人)の一部であり、彼らはもっと優れた武器や戦術を使ってくるかもしれない。特にケルト人やガリア人は重くて長い剣を使い、全身を隠せる盾を持ち、盾同士を繋げて大きな防壁にできる(のちの歴史家はこの戦術を "tortoise" と名付けた)。 その後第二次サムニウム戦争でも敗北を味わったローマは、そこでも敵方の新しい戦術と陣形を目にし、柔軟性の強化の必要性が認識され、軍団を3つの隊列に再編成するようになった。前列をハスタティ、中列をプリンキペス、後列をトリアリイとし、それぞれマニプルス(中隊)を単位として構成されるようになった。これを「マニプルス陣形 (manipular formation)」と呼ぶ。最前列(ハスタティ)の軽装歩兵は最大2年間の任期で、敵陣に投槍を投げ、後ろに下がる。経験を積んだ歩兵(ハスタティまたはプリンキペス)は重い槍と短剣と盾を装備している。さらに経験を積んだトリアリイは後列に位置し、他が1中隊120人なのに対して、1中隊60人で構成される。トリアリイは重装歩兵の武装である。ローマは最も若い軽装歩兵が戦闘でなるべく生き延びるようにし、戦闘によって教育していく軍隊を作った。 この軍事システムはその後の全てのローマ軍の基本となり、数世紀の間存続し、ローマ帝国を成立させる一因となった。 ローマが再びローマ人以外の敵に蹂躙されるのは、紀元410年のことである(アラリック1世)。
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