四方木工区復旧工事と1回目のルート変更
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「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「四方木工区復旧工事と1回目のルート変更」の解説
出水事故で水没した四方木工区を復旧するために、出水場所となった注入基地を閉塞する作業が行われた。これには、注入基地の360 m上部の地上からボーリングを行い、セメントミルクおよびモルタルを流し込むことで行われた。その上で、立坑に設置したポンプからの揚水量や、隣接する高山工区から行ったボーリングで排水された量と、立坑の水位の変化を比べることで、閉塞が確実に行われ水が止まったことが確認された。そこでポンプを設置し排水作業を行い、1979年(昭和54年)9月17日、出水事故から6か月後に排水作業を完了することができた。 排水完了後、損傷していたエレベーター関係の回路復旧や高圧ケーブルの敷設しなおし、損傷ポンプの撤去や代替ポンプの新設などの作業を行い工区の復旧を進めた。坑内の点検と清掃も行ったが、地上から閉塞のために注入した注入剤が迂回坑に流れ込んで堆積しており、その撤去まで新潟方への掘削作業を再開することができなかった。このため隣接する高山工区から導坑を貫通させ、新潟方からも応援の掘削を行った。最終的に四方木工区の復旧工事が完了したのは1980年(昭和55年)2月末のことであった。 なおこの四方木工区水没事故において水没した機材の費用は、工区を請け負っていた佐藤工業から公団に対して請求されたが、機材価格を偽るなどして総額6億2814万4000円の請求額のうち約1億5000万円が水増し請求であったことが会計検査院の調査で発覚し、1981年(昭和56年)11月26日の参議院大蔵委員会において追及を受けることになった。 中山トンネルのうち、四方木工区に属する大宮起点106 km400 mから107 km300 mほどの区間は、高圧の湧水を伴う過酷な地質条件にあることがこれまでに明らかになっていた。一方で迂回坑の掘削およびその際の地質調査により、本線より東側(下り列車に対して右側)には良好な地質の層が存在していることも明白になっていた。地質条件の悪い区間を直接掘削することも注入作業を行えば可能ではあったが、工期の短縮および工費の節約を図るためにはトンネルのルート変更を行って、地質の良い東側に本坑を移すことが有効であると考えられるようになった。四方木工区の水没事故をきっかけにルート変更の方針となり、1979年(昭和54年)9月20日に公団総裁に上申され、9月27日に承認されてルート変更が決定した。 地質分布の分析から、106 km600 m地点において従来の本坑から75 m東に移す方針が決定された。この時点で、大宮方に隣接する小野上南工区は105 km600 m付近まで接近してきており、その工事のやり直しをできるだけ少なくするように新たなルートを設定する必要があった。一方で新潟方に隣接する高山工区でも、108 km130 m地点付近において半径6,000 mの曲線の設定があり、それに抵触しないように設定する必要もあった。これに加えて、新幹線鉄道構造規則により最小曲線半径は4,000 mと規定されており、これを順守する必要があった。 こうして、下り列車に対して半径6,000 mの曲線で右へ曲がり、半径4,000 mの曲線で左へ曲がり、再び半径6,000 mの曲線で右へ曲がって元の本坑ルートへ戻る経路が決定された。従来の本坑より最大で85.81 m東にずれ、従来は八木沢層通過区間が約780 mであったところを約280 mに短縮した。
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