商人ハンザ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:33 UTC 版)
11 - 12世紀の商人は特定の街に定住せず、各地を遍歴して商品を売買する「遍歴商人」が主流だった。ドイツ人の遍歴商人は北海貿易に参加し、ロシア産の毛皮を求めてバルト海に乗り出していった。当時、北方貿易の中心になっていたのはヴァイキングの商業拠点となっていたゴトランド島で、ドイツ商人たちは彼らのネットワークに参入した。しかし、ヴァイキングの法では異民族は自動的に無権利であり、ドイツ商人は常に生命・財産を侵害されるリスクが存在した。そこで、ザクセンのハインリヒ獅子公が仲介に乗り出し、1161年にヴァイキングとドイツ商人の間に通商権の平等が認められた。さらにハインリヒはオデルリクスを団長とする遍歴商人団体を承認し、オデルリクスに民事・刑事上の司法権を与えた。商人団長に大きな権限が与えられたのには、ドイツから離れた地で異民族と競合しながら商売をしていくために、強いリーダーシップが必要があったためである。こうして、遍歴商人たちの団体である「商人ハンザ」が誕生した。 ドイツ商人の商業活動の広がりに応じてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大した。西はイングランド(イギリス)のロンドンから、東はジョチ・ウルス支配下(タタールのくびき)にあったルーシ(ロシア)の中心、ノヴゴロド公国のノヴゴロドまで広がった。このレンジはモスクワ会社設立の足がかりとなった。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力はヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。 ゴトランド島で中心的な役割を果たした都市は、ドイツ遍歴商人の活動拠点でもあったヴィスビューだった。ヴィスビューはドイツからロシア商人を放逐し、1237年にはイングランド王国から特権を与えられ国王・貴族に対し寡占的に毛皮を輸出していた。また、当時のヨーロッパには非合理的な神判や法廷決闘が裁判制度として機能している地域があった。古ゲルマン法では所有権と言う概念が定着しておらず、海岸に漂着した遭難者の財貨は発見者・海岸住民・海岸領主の物になるとされていた。ヴィスビューはこれらの原始的な法に対抗するため、リューベックから法体系を導入し、12世紀から13世紀にかけてバルト海沿岸地域に普及させていった。この過程において、ヴィスビューの法はキリスト教会から承認を受け、キリスト教の布教とセットでヴィスビュー法は伝えられていった。 リューベックはハインリヒ獅子公の保護を受け発展していた。しかし、ハインリヒは神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)と対立し、失脚する。リューベックは形の上では王領地となるが、実質的にはホルシュタイン伯に支配されるようになった。1188年、フリードリヒはリューベックに多くの特権を与え、商業都市としての発展を促進した。1227年にはホルシュタイン伯の支配を排除して帝国都市としての地位を獲得し、いかなる領主の支配にも属さない帝国直属の都市となった。リューベック市民の一部は周辺地域に移住し、ロストックやヴィスマールなど新しい都市を建設した。また、ロストック市民によって建設されたシュトラールズントなど、リューベックの「孫娘都市」も建設された。これらの都市をヴェンド系都市という。さらにリューベックの法は娘都市やバルト海沿岸の都市に普及していった。また、北方十字軍などにおいて北ドイツの都市との協力を必要としたローマ教皇庁もリューベックと友好関係を築いた。
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