同時期の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 19:01 UTC 版)
更に同門の三遊亭圓橘(二代目)門下の三遊亭萬橘(初代)が真っ赤な衣装揃えでヘラヘラ踊り、兄妹弟子の橘家圓太郎(四代目)は音曲畑の出で、都々逸やカッポレの合間にラッパを吹き鳴らした。桂文治 (6代目)門下の立川談志(四代目、あるいは二代目とも)は唐土の二十四孝の題材にヒントを取って郭巨の釜掘りというマイムまがいの所作に、「テケレッツのパー」という珍語を振りまく。上記の圓遊とこの3人を合わせて、人呼んで『珍芸四天王』という。このブームは業界を席巻し、4-5年にわたって続いた。そのピークは1881年(明治14年)- 1882年(明治15年)頃である。 圓太郎は音曲師としての芸はさほどではなかったものの愛嬌があり、当時の鉄道馬車で御者が持っていたラッパをプップーと吹き鳴らしながら高座に上がり、「おばあさん、危ないよ」と、これも御者の真似で叫んだりして客の笑いを取った。そのために『ラッパの圓太郎』の異名を取り、後に鉄道馬車の方を圓太郎馬車と呼ぶまでになった。彼は出囃子の替わりにラッパを使ったほか、端唄や都々逸、あるいは枝豆や豆腐売りの真似をする合間にもラッパを吹き、師匠からは『出世の見込み無し』と言われたこともあったのに、圓遊に次ぐ人気者となった。 萬橘は噺のあとに高座で立ち上がり、赤い手ぬぐいで頬っかぶりをし、赤字のセンスを開いて踊った。その時の唄が『ヘラヘラヘッタラヘラヘラヘ、太鼓が鳴ったら賑やかだ、大根(だいこ)が煮えたら柔らかだ……」などと言うもので、この合いの手からヘラヘラ踊りと呼ばれ、彼自身も『ヘラヘラの萬橘』と呼ばれた。 談志は真打ちとしての力量を備えていたが、『郭巨の釜掘り』という珍芸を始めた。これは上記三者に刺激を受けたのだろうともいう。郭巨という男が母に孝行する邪魔になるのでと穴を掘って我が子を埋めようとしたところ、金塊一釜を掘り当てた、という中国の故事は、二十四孝の一つとして当時は寺子屋などで教えられ、みな知っていたものだという。彼の芸はこれにちなんだもので、まず手ぬぐいで後ろ鉢巻きをし、次に座布団を折り曲げて赤子に見立て、これを抱き上げて立ち上がり、「そろそろ始まる郭挙の釜掘り、テケレッツノパァ……アジャラカモクレン、キンチャンカマール、座席喜ぶ、テケレッツノパァ……」などと意味不明の、一部には寄席の符丁などを取り入れた文句を唱えながら高座を歩き回るものだった。これもたいそうな人気を取り、『釜掘り談志』、『テケレッツの談志』などと呼ばれた。彼はまた、唄の中に世相風刺や時事漫談的な内容も折り込み、庶民の声を代弁するものとして大きな人気を博した。 1881年(明治14年)2月には京橋『金沢亭』で『珍芸四天王』が顔を揃えた興行が行われ、人気は更に高まった。当時の東京には170軒ほどの寄席があったが、どこであれ『三遊亭圓遊』の看板を出すだけで満員になったとされ、圓遊は一日で30軒近くの寄席を回り、それぞれ5分ばかり『ステテコ踊り』をしてこなしたともいわれる。
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