双葉山との仲とは? わかりやすく解説

双葉山との仲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 20:39 UTC 版)

玉ノ海梅吉」の記事における「双葉山との仲」の解説

1939年1月場所9日目の対双葉山戦で勝利すると、師匠前年急死した玉錦霊前報告した。この翌日奇しくも玉錦四十九日で、玉ノ海霊前報告する様子写真撮影され翌日朝刊掲載された。玉ノ海曰く玉錦夢を見たが、最後に玉錦押し出した形がこの日双葉山勝ったのと同じ形だった」という。年月過ぎれば過ぎるほどその勝ち星信じられず、双葉山本人聞いてみると「ワシ、お前に負けたことあったっけ?」と聞き返された。それで玉ノ海自分本当に双葉山勝利したのだと確信したという。 双葉山とは初土俵新入幕こそ玉ノ海の方が遅いものの、同い年で共に玉錦三右エ門から稽古付けられた仲で親友だった。解説者受諾した際に國技館再会すると、どちらからともなく右四つ組んだ本人はこれを「友情右四つ」と呼んで後々まで大事にしていた。双葉山理事長就任して以降は、在外視点相撲制度の改革進言し、部屋別総当たり制導入などの実現寄与したまた、大相撲における八百長相撲概念認め人物でもありその撲滅進言したが、これは双葉山急死によって実現しなかった。死去する直前には『週刊ポスト誌上大相撲八百長いまだに存在する主張していたため葬儀には神風片男波(元関脇玉ノ富士)を除いて角界関係者が一切参加しなかった。 双葉山死去した時に思い出書いた文章では、「角界からも一人位、国会議員選出した方が良いではないか参議院議員立候補しようかと思う」と相談したが、双葉山から「いや、お前は解説続けるべきだ」と言われ思い留まったという。 同場所11日目前頭17目で全勝続け出羽湊利吉いわゆる連勝止め男」として対戦組まれるが、安藝ノ海節男双葉山連勝止めたことに乗じて天皇賜杯奪回」の悲願果たしたい出羽海一門から、敗退行為打診され、これを受けた後年になってこの対戦を「生涯痛恨の一番」として明かしている。出羽海示した条件は翌場所の大関昇進だったが、千秋楽の後に支度整えて待つも、ついに昇進伝達使者訪れなかった。玉ノ海回想によれば大関昇進達成できなかったのは、その後になって同様の依頼全て断り続けたためもあったという。

※この「双葉山との仲」の解説は、「玉ノ海梅吉」の解説の一部です。
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