創設者:川名ワカ
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川名 ワカ(明治3年(1870年)2月8日 - ?)は、栃木県那須郡蛭田村(町村制施行後は湯津上村。現在の大田原市蛭田)において、庄屋を務める渡辺家に生まれる。4人きょうだいの長女(第一子)であった。 14歳で単身宇都宮に出、三科コトの私塾で、漢学・英語・数学・薙刀を学ぶ。塾の助教も務めるようになったが、コトは福島県の小学校訓導を務めることとなり、この塾は閉鎖された。1888年(明治21年)春、コトを慕ってワカを含め3名の塾生が福島に赴き、彼女たちは福島の小学校で雇授業生(代用教員)を務めた。この年、ワカ19歳の時、福島県師範学校の女子部第一回募集があり、ワカは入学条件と試験を突破して入学した。なお、入学条件の中には「他府県の人ではないこと」(福島県の費用を受給する関係上、福島県に戸籍があることが求められた)があったため、福島町長鈴木三郎兵衛の嫡女という形式を整えて入学している。 1891年(明治24年)3月に師範学校卒業後、福島県で小学校訓導を務める。ワカは子守教育・幼児教育に目を向けて取り組みをはじめた。1896年(明治29年)に福島尋常高等小学校(現在の福島市立福島第一小学校)で正式に子守教育を始めた(附属子守学校を設置した)際には、その担任も務めた。1897年(明治30年)に福島第二尋常高等小学校(現在の福島市立福島第二小学校)訓導に移ると、同小学校に付属幼稚園を設け、保母を兼任した。このほか、視覚障碍者の教育を始め、看護婦養成所の舎監を務めるなど、各種社会教育に従事した。女子教育の必要から高等女学校の設立にも尽力し、福島県立福島高等女学校(現在の福島県立橘高等学校)の基礎を築いたともされる。また、こうした社会事業での接点から、福島を拠点にしていた瓜生会(福島県出身の瓜生岩子が設立した社会事業団体)の活動にも参加、救貧事業にも関わった。岩子が東京養育院に招かれると、福島での瓜生会の事業を預かる一人となったという。 1899年(明治32年)、東京に出る。多忙となった岩子が、ワカの助力を求めたためという。社会事業に関わるとともに、小学校に職を求めた。本郷区の誠之小学校訓導を務めた際には、三上参次の子供の一人が世話になったといい、1932年に出版された『川名女史と桃山御陵下の教育』に三上が序を寄せている。瓜生会の活動を通じて、名士や要路の知遇も得た。 その後、京都に移住。瓜生会が事業として女工の教育を目指した際に、信州と京都西陣が候補となったためである。また、京都府師範学校で教鞭をとっていた川名庄吉と結婚、媒酌人は土屋弘(土屋鳳洲)夫妻であった。なお、夫妻はその後1男2女を設けている。
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