制度と芸能との関わりとは? わかりやすく解説

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制度と芸能との関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 03:07 UTC 版)

同朋衆」の記事における「制度と芸能との関わり」の解説

鎌倉時代末期から合戦同行する陣僧中に時衆(宗)の僧が多かったことから、武家との結び付き強まり平時においても芸能活かして武士の慰めとするようになっていき、同時に側近取次ぎ人として役目も果たすようになった。また時衆による踊り念仏民俗的な歌舞結びつきやすく、一遍遊行上人二世真教三世智得らが歌人であったことに加え時衆における遊行室町幕府から関所自由通過を許され正規でなく時衆に加わる手続き簡単だったため、芸能を生活の手段とする人々時衆集団に加わるようになる連歌師頓阿周阿は、時衆僧ではないが四条道場金蓮寺)の、万葉集研究した由阿藤沢道場清浄光寺)の阿弥だった。 阿弥衆には、能面師の増阿、立花の立阿、文阿がいて、南北朝時代四条道場六条道場歓喜光寺)などで立花が行われていた。時衆の寺の阿弥衆遊行によって地方連歌立花などの芸能広めていった。地方においても、筑前時衆寺院金台寺職人達が芦屋釜制作携わった制度としての起源は、細川頼之執事となって6人の法師を抱えて足利義満仕えさせたことに始まる。同朋猿楽庭園作りなどの芸能司り、また唐物奉行として、唐物唐絵目利き表装出納などを行った義政の代には、能阿弥による唐物東山御物制定などを行った能阿弥芸阿弥相阿弥三代は、書院座敷飾り様式創案し絵画では「国工」「国手」とも呼ばれ連歌では宗匠呼ばれるほどだった。竜安寺大仙院石庭相阿弥の作と伝えられ東山文化形成大きな影響与えた考えられるこの頃同朋衆阿弥号持って剃髪し立花茶湯、香、連歌などの一芸持ち東山殿義政周辺にいて、無聊慰めたり唐物選びや座飾りをして客人との遊興の場を作ったりしていた。この東山殿には、能阿弥から立花唐物目利き学んだ村田珠光訪れた作庭活躍した善阿弥河原者山水河原者)であり、また同様に作庭従事した多く河原者たちがいた。 続いて織田信長豊臣秀吉にも同朋衆仕える。徳川家では、1580年天正8年)に谷新六郎正次(後に内田姓)が全阿弥改名し同朋衆として徳川家康仕えたのが始めとされるその後江戸幕府においては若年寄配下江戸城内の管理携わり奥坊主衆を監督指揮した同朋衆語源は、仏教者の「同業同朋」から来たものと見られるが、将軍近侍の「童坊」から来たという説もある。

※この「制度と芸能との関わり」の解説は、「同朋衆」の解説の一部です。
「制度と芸能との関わり」を含む「同朋衆」の記事については、「同朋衆」の概要を参照ください。

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