制度と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 14:46 UTC 版)
第一次世界大戦末のドイツ革命により、ドイツやプロイセンは共和政となった。1918年11月14日には中央政府と同様にプロイセン政府にも社民党と独立社民党が3人ずつ閣僚を出し合う仮政府「人民代表評議会(Volksbeauftragten)」が創設された。 プロイセン人民代表評議会は翌11月15日にも貴族院の廃止と衆議院の解散を宣言し、12月21日にはプロイセン憲法制定議会プロイセン会議(Preußische Landesversammlung)(ドイツ語版)の選挙に関する条例を定め、衆議院時代の男子三級選挙制度は男女普通選挙に改正された。1919年1月26日に選挙が行われ、社民党と中央党と民主党の「ヴァイマル連合(ドイツ語版)」が多数を占めた。この3党を中心に憲法審議が進められ、1920年11月30日にはプロイセン憲法(ドイツ語版)が制定された。 同憲法により、プロイセン州議会(Preußischer Landtag)が設置された。その議員は、20歳以上の男女州民による普通選挙で選出される。任期は4年だが、過半数の議員の賛成、三頭会議(ドイツ語版)(州首相、州議会議長、州参議院議長)の決議、もしくは国民投票の決議があると任期前でも解散される。 州議会に対する上院として県(Provinz)代表から構成されるプロイセン州参議院(ドイツ語版)があるが、ここでは立法はできず、州議会に対して異議を申し立てることができるのみである(州議会の三分の二の賛成があるとこの異議は拒否される)。 州議会で州首相を選出すると定められており、1920年から1932年まで(1921年中にわずかな中断期がある)というヴァイマル共和政期の大半を社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めた。社民党、中央党、民主党のヴァイマル連合がその与党となっていた。中央政府では社民党が政権から離脱してヴァイマル連合が崩れることもあったが、プロイセンではヴァイマル連合は維持され続けた。しかし1932年4月の州議会選挙では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が36.3%の得票と162議席を獲得して第一党になったため、ブラウン内閣は総辞職を余儀なくされた。しかしナチ党も過半数には達していなかったので議会は後継の州首相を指名できずブラウン内閣が暫定政権として続くことになった。 同年7月にはパーペン内閣が大統領緊急令を用いてプロイセン・クーデタ(ドイツ語版)を起こし、ブラウン政権を解体。パーペンが代理執行官に就任した。プロイセン憲法の定める議院内閣制は完全に無視されるに至った。さらにナチ党が政権を掌握したのちの1934年1月30日には「国家革新に関する法律」によりプロイセン議会を含む全ての邦議会が廃止され、各邦の持つ主権はドイツ国に移譲されることとなった。
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