初期/パブロック(1960年代末 - 1977年)
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「グレアム・パーカー」の記事における「初期/パブロック(1960年代末 - 1977年)」の解説
1960年代後期および70年代初期、グレアム・パーカーは手袋工場やガソリンスタンドといった仕事で働きながら、Black Rockers や Deep Cut Three のような英国のローカルバンドで歌っていた。1975年、まもなくスティッフ・レコード Stiff Records を設立し、パーカーを著名な最初のバックバンドと結びつけたデイヴ・ロビンソン Dave Robinson と、ロンドンで2、3のデモトラックを録音した。 1975年夏に結成されたグレアム・パーカー&ルーモア Graham Parker & Rumour (パーカーおよび、ギターのブリンズリー・シュウォーツ Brinsley Schwarz とマーティン・ベルモント Martin Belmont、キーボードのボブ・アンドリュース Bob Andrews、ベースのアンドリュー・ボドナー Andrew Bodnar、ドラムのスティーブ・グールディング Steve Goulding)は英国のパブロック・シーンで演奏を始めた。バンドは、ルーモア・ブラス The Rumour Brass として知られる4名のホーン・セクション: ジョン・“アイリッシュ”・アール John "Irish" Earle (サックス)、クリス・ガウアー Chris Gower (トロンボーン)、ディック・ハンソン Dick Hanson (トランペット)およびレイ・ビーヴィス Ray Bevis (サックス) によって増強された。 1976年にリリースされた、バンドの最初のアルバム『ハウリン・ウィンド』 Howlin' Windは好評価を受け、スタイル的に類似した『ヒート・トリートメント』 Heat Treatment がすぐに続いた。ロック、バラード、レゲエに影響された楽曲が混ざったこれらのアルバムは、パーカーの初期の影響(モータウン、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、ヴァン・モリソン)を反映しており、ライブ・ショーの中核となった楽曲、「ホワイト・ハニー」 White Honey、「ソウル・シューズ」 Soul Shoes、「レディ・ドクター」 Lady Doctor、「フールズ・ゴールド」 Fool's Gold、そして彼の初期のテーマ曲となり英国トップ40ヒットとなった「主よ訊き給うな」 Don't Ask Me Questions を含んでいた。 パーカーとルーモアは、扇動的なライブ・パフォーマーとして評判となった。この頃録音されたプロモーション・アルバム Live at Marble Arch は、彼らの生々しいステージ・スタイルを示している。彼がゆるく結びついていたパブ・ロック・シーンや、この歌手の階級を意識した歌詞と情熱的なボーカルは、英国で開花し始めていたパンク・ロック同様ロック・ミュージックの変革を告げていた。 グレアム・パーカー&ルーモアは、1976年の早い時期にレコーディング・キャリアを築くことにより、いつも比較される他の2人の“ニュー・ウェイヴ”の英国シンガー・ソングライター、エルヴィス・コステロ Elvis Costello とジョー・ジャクソン Joe Jackson に先行した。コステロのファースト・シングルは1977年にリリースされ、ジャクソンのファースト・ソロ・シングルは1978年後半だった。ジャクソンは1976年4月始めに3枚のノン・チャート・シングルをリリースした Arms & Legs のメンバーでもあったが、それはパーカーとルーモアのデビュー・シングル「シリー・シング」 Silly Thing リリースのちょうど1ヶ月後だった。 キャリア初期、パーカーの仕事はジャクソンやコステロのとの比較が好まれた。その後長きに渡ってジャーナリストは彼等を一緒くたに分類し続け、アーティストの作品が異なっていって久しいにもかかわらず、「怒れる若者たち」の一種としてレッテルを貼り続けている。パーカーは辛らつなウィットで、この習慣を批判するのを躊躇しなかった。 最初の2つのアルバムへの批評家の称賛は LP のセールスとは大体において一致しなかった。グレアム・パーカー&ルーモアは、1977年にBBCテレビの『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演し、1977年3月に英国トップ30 ヒットとなった The Pink Parker EP からトランプス The Trammps の「ホールド・バック・ザ・ナイト」 Hold Back the Night のカバー・バージョンを演奏した。 この点で、アメリカのマーケットに入り込むことを意識して、パーカーはソング・ライティングのスタイルを変え始めた。この新しい方向の最初の成果は、『スティック・トゥ・ミー』 Stick To Me (1977) に現れた。アルバムは英国チャートのトップ20入りしたが、特に「ヒート・イン・ハーレム」 The Heat in Harlem のような当時のバンドで最も長いナンバーでは批評家の意見は分かれた。ニック・ロウ Nick Lowe のプロデュースもまた非難され、一部の批評家は、バンドがか細く聞こえパーカーの声が低くミックスされたと不満を述べた。実際のところそのとき、スタジオでの災難が元のレコーディングを危うくし、グループに短期間でのアルバムの作り直しを強いていた。
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