初期の悟りにおける仏教の位置づけ
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「初期仏教」の記事における「初期の悟りにおける仏教の位置づけ」の解説
初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる。それらのことを考えると、ゴータマの意識の中では、宇宙の真理を悟ったという自覚があったようであるけれども、悟りの内容を定式化して説く機縁にあった弟子がほとんどいなかったために、それを説く機会がなかったと見ることもできる。 ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったのだけれども、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあるようである。そして、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた。 ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。ブラフマンは大宇宙的概念であり、アートマンは小宇宙的概念とする見方もある。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説を見ても、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定しているともいえる。梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある。ここにあげられているやや古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている。いずれにしても宇宙の真理としての最高原理とゴータマの悟りとの間には深いつながりがあるようである。 同じブラフマー神が関係していると思われるウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達とを比べた場合、大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても、初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされているので、ゴータマにおいては、通過点としての(インド古来の)梵我一如の境地をも悟ったがゆえに、(実体的なアートマンは無いとする無我・非我の立場に立って)説法することを「梵輪をまわす」と表現したと見ることも可能なようである。
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初期の悟りにおける仏教の位置づけ
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「悟り」の記事における「初期の悟りにおける仏教の位置づけ」の解説
初期においては、ゴータマが説法することを「梵輪をまわす」と呼んでいた。これは古ウパニシャッドからきており、宇宙の真理を悟った人が説法をするという意味があるとされる。 ウパニシャッドでは、「解脱」とは宇宙原理たるブラフマンと自己との合一を意味していた。しかし、初期仏教では人間の理法を体得して、安心立命の境地に至ることが悟りであるとされている。梵我一如を体得した古仙人たちの歩んできた道を歩んだとされるゴータマには、宇宙の真理を悟った人が説法をするという自覚があったが、その悟りの内容は、四諦という言葉によって体系化されているという状況にあることが示され、大乗仏教に至ると、宇宙の真理(法)と一体になることを悟りとする宗派が生まれてきた。 ウパニシャドでは、ブラフマンとは宇宙の最高原理とみなされており、この最高原理が人格的に表象されたものがブラフマーであり、創造神とされていた。善い行いをした人が死後天上界に行くとした場合や、自島明におけるなんらかの主体性などの教説から、自然の中には還元しきれない何ものかを仮定している。梵天勧請の経文には、最高原理の人格的な表象として、この世の主ブラフマー神というものが出てくるので、ゴータマの悟達の境地と宇宙の最高原理を悟るということには、何らかの関係があると見ることができる。また、人格的な表象としての梵天による勧請の一段は、後世の追加とする見解もある。ここにあげられている古い詩句は、心の中での出来事を現わしたものとされ、散文の説明は明らかに後世のものであるとされている。 ウパニシャッドの哲学の梵我一如の悟達とゴータマの悟達が大きく異なる点は、梵我一如におけるアートマンの存在が存在しないということである。しかし、この点についても初期の仏教には不確かな部分があり、「アートマン」は存在しないとは説いていないとされている。これは、アートマンを実体視しているウパニシャッドの哲学に対して仏教の側が反対しただけの教説にすぎない、というのがその理由となっている。ゴータマの悟りの内容に関しては、アートマンが存在するかどうかについての返答をゴータマが与えなかったものであるとされている。
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