初期の役割と七日間の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 05:47 UTC 版)
「ジョン・F・レイノルズ」の記事における「初期の役割と七日間の戦い」の解説
南北戦争が始まって間もなく、レイノルズはウィンフィールド・スコット中将の副官として地位を与えられたがこれを辞退した。第14アメリカ歩兵連隊の中佐に指名されたが、この部隊と共に行動する前に1861年8月20日に准将に昇進され、ワシントンD.C.への出頭を命じられた。その移動中に命令はノースカロライナ州ハッテラス入江岬に行くように変えられた。ジョージ・マクレラン少将が陸軍長官に干渉して再度その命令を変えさせ、新しく編成されたポトマック軍に加わることとされた。レイノルズの最初の任務は志願士官の資格を審査する委員会だったが、間もなくペンシルベニア予備役旅団指揮を任された。 1862年の半島方面作戦でマクレランの軍隊がバージニア半島を北上したとき、レイノルズはフレデリックスバーグを占領し、その軍政府長官になった。レイノルズの旅団は七日間の戦いが始まる直前にメカニクスビルで第5軍団に加わるよう命令を受けた。この旅団は6月26日のビーバーダム・クリークの戦いで南軍の激しい攻撃を受けたが、その防御線が持ち堪え、レイノルズは後にその師団長であるジョージ・A・マッコール准将から称賛の手紙を受けた。 南軍の攻撃は6月27日も続き、ゲインズミルの戦いで疲れ切り2日間も寝ていなかったレイノルズはボースンの湿地で捕まった。レイノルズは比較的安全な場所にいると思いこんで眠ってしまい、彼を残して自隊が引き上げてしまったことに気付かなかった。レイノルズは捕まえられた南軍部隊の将軍、D・H・ヒルの前に連れて行かれたときに当惑した。ヒルは戦前から陸軍での友人であり同僚だった。ヒルは「レイノルズ、捕まえられたことをそんなに悪く考えることはない。それが戦争の運命だ」と言ったと伝えられている。レイノルズはリッチモンドに移送され、リビー監獄に収監されたが、間もない8月15日に南軍ロイド・ティルマンとの捕虜交換で釈放された。
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