初期のチャート
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「全英シングルチャート」の記事における「初期のチャート」の解説
レコードの売上に基づくシングルチャートは、アメリカのビルボードが1940年代初期に初めて発表した。イギリスではそれより遅れて、1952年11月14日版のニュー・ミュージカル・エクスプレス (NME) が初めて発表した。他の有名だった楽譜のセールス・チャートに比べて工夫が凝らされた初めてのチャートであった。他のチャートは1936年から不規則に開始していた。そしてこの流れは初めてカウントダウン・ショーを放送したラジオ・ルクセンブルクが中心となっていた。新しいセールス・チャートはNMEの古くからの(そしてより有名な)ライバル、メロディー・メイカー誌との出版競争に使われた。チャートは12位までリストに載っていた。しかし同じ順位のレコードが数枚あったために実際には15枚のレコードが載っていた。このチャートは雑誌の広告マネージャー、パーシー・ディッキンスが作成した。彼は20店ほどの大手レコードストアに電話し、セールス・リポートを自らまとめた。彼は1960年代までチャート編集を監修していた。 チャートは急速に雑誌内で人気の要素となった。わずかな期間でレコード会社の広告やプレス・リリースに引用されるようになった。1954年10月にはトップ20にまで広がり、1956年4月にはトップ30までに広がった。チャートには模倣者まで出現した。ライバルとなるレコード・ミラーが1955年、メロディ・メイカーが1956年に次々と独自にシングルチャートを発表した。しかし、楽譜のセールス・チャートが一夜にして必要なくなったわけではない。数年は重要かつ、より正確にまとめられていると見なされていた。しかし、セールス・チャートこそがチャートの未来であった。 今日のUKシングルチャートの前身は、最初に1960年にレコード・リテイラー(現在のミュージック・ウィーク)が発表したものだが、NMEらのチャートより後発であるため、当初は公式チャートとは認められていなかった。ラジオ・ルクセンブルクがNMEチャートを使用していることによる広い露出という優位があった。60年代を通して、様々なチャートが公の認知を得るために競い、数々の例外が出現した。例として、ビートルズのセカンドシングル、「プリーズ・プリーズ・ミー」は多くのチャートで1位になったが、レコード・リテイラー誌では1位とならなかった。また、BBCが自分たちの人気番組をピックアップするために計算しているともいわれ、実際1968年にはビーチボーイズの「Do It Again」、ビージーズの「I've Gotta Get a Message to You」、ハーブ・アルパートの「This Guy's In Love With You」の3曲が同時に1位タイとなる有様だった。その他にもチャートは存在した。1960年代の中盤、「海賊放送局」ラジオ・ロンドンのチャートはその聴衆の数が理由で影響力が大きかった。しかし本質的にはエアプレイ・チャートであり(聞き伝えられているところによると賄賂に影響されていた)、セールスとはつながりを持たなかった。 1969年よりBBCとレコード・リテイラーが共同で、チャートの信頼性を向上させた。初めて専門の調査団体、BMRBがチャートの監修を依頼された。今までのチャートで使用したデータの2倍以上にのぼる、約500のレコード店の販売データを集計した結果だった。新たなオフィシャル・トップ50は、初めてコンピューターが編集した。そして1969年2月12日の週の終わりに初めて世に出た。それからチャートとその後継版は、毎週レコード・リテイラー、後にミュージック・ウィークが出版した。 1978年5月にシングル・チャートはトップ50からトップ75に拡大された。
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