全盛期:1968-1973年
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「スライ&ザ・ファミリー・ストーン」の記事における「全盛期:1968-1973年」の解説
デイヴィスから「もっとポップな曲を」と要求されたため、渋々出したシングルが1968年2月の「Dance to the Music」だった。この曲はビルボード・Hot 100の8位を記録し、グループの名を初めて全米に轟かせた記念すべき曲となった。このシングルを出す直前に、ローズが参加している。彼女は、結成当初から参加を勧められていたが、地元のレコード店での安定した職を投げ打つ決断がつかず、先延ばしにしていたものである。 アルバム『Dance to the Music』(1968)の売り上げは好調だったが、次に出した『Life』(1968)は商業的に成功しなかった。しかし売れ行きに関係なく、この2作のアルバムの影響力は絶大で、1968年9月には英国ツアーも予定されていたが、コンサートはキャンセルとなった。 1968年11月、シングル「エヴリデイ・ピープル」をリリース。バンドにとって初めてのナンバーワンヒットとなった。この曲は人種差別はもちろん、あらゆる偏見を否定する曲であり、全盛期のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの考え方を代表している。 1969年5月にアルバム『スタンド!』をリリース。300万枚を売り上げ、60年代に最も成功したアルバムのひとつとなった。8月にはウッドストック・フェスティバルに出演し、愛と平和と人種統合の理想を背景に時代の寵児となった。同月に発売したシングル「ホット・ファン・イン・ザ・サマータイム」は全米チャートで2位、12月に発売したシングル「サンキュー」は1位を記録するなど人気はとどまるところを知らなかった。 しかし、同じ頃すでにリーダーのスライ・ストーンは麻薬中毒に侵されていた。黒人の自立を説くブラックパンサーはスライに対して、白人のグレッグとジェリーをバンドから追い出し、もっと黒人寄りの曲を作るように圧力を掛けた。スライは薬物の影響で精神的混乱をきたし、ラリー・グラハムとの仲も険悪になってしまう。70年ごろからは、コンサートで大幅な遅刻や、キャンセルをしてしまうなどの奇行が目立つようになってしまう。そのためにバンドは分解状態となり、プロモーターからも見捨てられてしまう。ラリー・グラハムはやがてバンドを解雇され、グラハム・セントラル・ステーションを結成した。1975年1月には、ラジオシティ・ミュージックホールでの公演の大失敗(僅か8分の1しか客席が埋まらなかった)を機に、とうとう活動を停止した(ただし、公式の解散は1981年)。 そんな時期でも、輝きを放ったアルバムが、1971年11月の『暴動』である。このアルバムは、以前のロックとポップ・サウンドを演奏したスライとは大きく異なる、暗いトーンながらも非常にファンキーな作品に仕上がった。ブーツィー・コリンズは、このアルバムを自身のフェイバリットにあげている。シングルカットされた「ファミリー・アフェア」により3度目の全米チャート1位を獲得した。 1973年6月、アルバム『フレッシュ』を発表。同アルバムにはヒット曲「イフ・ユー・ウォント・ミー・ステイ」が収録されている。このアルバムは、勢いのあった時期のスライのファンキーな作品として評価された。同作品では、ドラムがアンディ・ニューマークに交代している。
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