元号法制化とは? わかりやすく解説

元号法制化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:05 UTC 版)

村上正邦」の記事における「元号法制化」の解説

1964年昭和39年)に生長の家政治連合(生政連)が発足し村上はその国民運動本部長となる[要出典]。また、日本を守る会」の国事対策局長就任する[要出典]。当時生長の家靖国神社へのスタンス違いにより、新日本宗教団体連合会新宗連)を脱退していた[要出典]。 そうした中、1965年昭和40年)、玉置和郎参議院全国区立候補し85票を得て当選した村上玉置秘書となる。昭和46年玉置二度目当選の後、村上教団戻り、生政連の仕事とともに谷口雅春巡錫随行する[要出典]。 1974年昭和49年)、村上参議院議員全国区初め立候補する。しかし55票で次々点で落選企業丸抱え選挙や、タレント議員登場当選ライン上がったのが敗因だった[要出典]。 この選挙中、当時内閣総理大臣であった田中角栄から直接電話があり、「村上君、お前な、一万五千足りねぇよ」と言って自ら選挙カー乗る申し出たが、村上福田赳夫派の候補だったので、義理立てして断った落選後、留守宅にまた電話があり、妻に「お前のオヤジは頑固でいかん。俺があれだけ一万五千足りないと言って俺のところへ来いといったのに、あいつは来ない。これから、あんたもいろいろ大変だろう。何かあったら、あんたが俺のところに来いと言った。妻は感激して泣いていた。 村上は生政連の国民運動本部長を続けながら、「日本を守る会事務局メンバー務め昭和天皇在位五十年の奉祝行事、さらに元号法制化運動取り組む。「日本を守る会とともに元号法制化に取り組んだのが、生長の家学生会全国総連合生学連出身者中心とする「日本青年協議会」(委員長衛藤晟一書記長椛島有三)で、この動きが後に日本会議源流となる。村上椛島二人三脚でこの運動進めた。(草の根保守参照元号法1979年昭和54年成立した。 元号法制化のために結集した元号法制化実現国民会議解散するのはもったいないということで、「日本を守る国民会議」が結成される事務局明治神宮関係者生長の家関係者で「日本を守る会」と共通していた。 一方玉置1977年昭和52年)、議員集団宗教政治研究会宗政研)を創設村上事務局長になる[要出典]。

※この「元号法制化」の解説は、「村上正邦」の解説の一部です。
「元号法制化」を含む「村上正邦」の記事については、「村上正邦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「元号法制化」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から元号法制化を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から元号法制化を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から元号法制化 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元号法制化」の関連用語

元号法制化のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元号法制化のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの村上正邦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS