元号法制化
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1964年(昭和39年)に生長の家政治連合(生政連)が発足し、村上はその国民運動本部長となる[要出典]。また、「日本を守る会」の国事対策局長に就任する[要出典]。当時、生長の家は靖国神社へのスタンスの違いにより、新日本宗教団体連合会(新宗連)を脱退していた[要出典]。 そうした中、1965年(昭和40年)、玉置和郎は参議院全国区に立候補し、85万票を得て当選した。村上は玉置の秘書となる。昭和46年、玉置の二度目の当選の後、村上は教団に戻り、生政連の仕事とともに、谷口雅春の巡錫に随行する[要出典]。 1974年(昭和49年)、村上は参議院議員全国区に初めて立候補する。しかし55万票で次々点で落選。企業丸抱え選挙や、タレント議員の登場で当選ラインが上がったのが敗因だった[要出典]。 この選挙中、当時内閣総理大臣であった田中角栄から直接電話があり、「村上君、お前な、一万五千足りねぇよ」と言って自ら選挙カーに乗ると申し出たが、村上は福田赳夫派の候補だったので、義理立てして断った。落選後、留守宅にまた電話があり、妻に「お前のオヤジは頑固でいかん。俺があれだけ一万五千足りないと言って、俺のところへ来いといったのに、あいつは来ない。これから、あんたもいろいろ大変だろう。何かあったら、あんたが俺のところに来い」と言った。妻は感激して泣いていた。 村上は生政連の国民運動本部長を続けながら、「日本を守る会」事務局メンバーを務め、昭和天皇在位五十年の奉祝行事、さらに元号法制化運動に取り組む。「日本を守る会」とともに元号法制化に取り組んだのが、生長の家学生会全国総連合(生学連)出身者を中心とする「日本青年協議会」(委員長・衛藤晟一、書記長・椛島有三)で、この動きが後に日本会議の源流となる。村上は椛島と二人三脚でこの運動を進めた。(草の根保守も参照) 元号法は1979年(昭和54年)成立した。 元号法制化のために結集した元号法制化実現国民会議を解散するのはもったいないということで、「日本を守る国民会議」が結成される。事務局は明治神宮関係者と生長の家関係者で「日本を守る会」と共通していた。 一方、玉置は1977年(昭和52年)、議員集団宗教政治研究会(宗政研)を創設、村上は事務局長になる[要出典]。
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