作曲家、教育者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/16 10:16 UTC 版)
「イートン・ファニング」の記事における「作曲家、教育者として」の解説
ファニングは1874年に和声学の教授代理としてアカデミーの教員に任用され、1877年にはピアノの助教授、その翌年には教授に昇進した。1877年にはアカデミーの準校友となり、1881年に校友となるが、これは卒業生にとっては最高の栄誉であった。1877年7月18日、アカデミーが主催してファニングの1幕の喜劇的オペレッタ「The Two Majors」が上演された。エドワード・ローズ(英語版)による台本は、ウィリアム・S・ギルバートの「Bab Ballads」を改作したものであった。サリヴァンはファニングが作曲した音楽に対して「温かく、現実的な興味を向けて」いた。ミュージカル・タイムズ紙には、この作品について次のような記述がある。「大層面白く、優れており(中略)イタリアオペラの不合理を鋭く風刺している部分もあり(中略)作曲者の目指す方向性に沿った、素晴らしい出来となっている。」ある批評家は音楽と舞台演出を称賛しつつも、これが学生による公演であることを付け加えた上でこう記した。「衣服に関しては、宮内庁長官が伝統的に羨望と眼差しと保護の中受け継いでいるのと同じ具合に、もっと伸ばす必要があった。」ファニングの楽曲が成功したことがきっかけとなり、アカデミーの教員はオペラの講座を新設することになった 。 1881年10月、ファニングの2作目の喜劇的オペレッタ「Mock Turtles」が、サヴォイ劇場(英語版)でギルバートとサリヴァンの「Patience」上演前の開幕劇として初演された。この作品は1883年3月まで、はじめは「Patience」と、その後「Iolanthe」とセットになって上演された。リチャード・ドイリー・カート(英語版)のオペラ会社も、この作品を携えてイギリス国内を公演して回った。1882年、ファニングは3作目となる短いオペレッタ「The Head of the Poll」を作曲した。アーサー・ロー(英語版)の台本によるこの作品は、トーマス・ジャーマン・リードの興行会社によって上演された。批評家の見方は好意的なものだったが、彼らは主に台本に注意を向けており、音楽に関しては「非常に元気が良かった」、「可愛げがあった」、「陽気で旋律的であった」などと書くにとどまっていた。同じ年に、ファニングの序曲「The Holiday」がロイヤル・オペラ・ハウスのプロムナード・コンサートで演奏されている。 1882年8月、ファニングはキャロライン・ペア・ガルピン(Caroline Pare Galpin)と結婚した。2人は息子1人と娘3人を儲けた。ファニングは管弦楽のための間奏曲「Savage Dance」という愉快な曲を作曲し、1883年7月にロイヤル・アルバート・ホールで行われた未開人クラブの催しのために「未開人の衣服に身を包んで」この曲を指揮した。これは王立音楽大学の基金を立ち上げるための演奏会であり、エドワード7世とアレクサンドラ妃も臨席していた。彼のその他の作品には「Buttercups and Daisies」や児童合唱のための田園カンタータ(1892年)、ロ短調のミサ曲、ピアノ独奏曲、様々な歌曲や合唱曲がある。彼の歌曲の中でも人気が高いのは「I've something sweet to tell you」とパートソング「The Vikings」(元はピアノ伴奏だったが、後に管弦楽伴奏編曲された)の2曲である。 王立音楽アカデミーで教授として教鞭を執る傍ら、ファニングは1882年からギルドホール音楽演劇学校のピアノ科教授となっていた。また、王立音楽大学の前身である国立音楽養成学校でもピアノ科、和声学の教授を務めるとともに合唱の講座の指揮者をしていた。彼は1883年に学校が王立音楽大学になった後もこれらの職に留まり続け、1887年まで務めた。1885年には音楽が非常に重要であったハーロー校の音楽主任の職も受け持つことになった。彼は6人の音楽指導者を助手として従え、1901年までハーロー校での仕事にあたった。 ファニングは退職した後はブライトンで隠居生活を送り、77歳でこの世を去った。
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