佐藤方定の見解
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佐藤は1831年(天保2年)の著書『奇魂』(くしみたま)において、当時流布していた『大同類聚方』の伝本を明白な偽書であるとし、その論拠として以下の点を挙げている。 3種ある伝本の内容構成に相違が見られる。1828年(文政11年)に刊行された伝本では初めに用薬が記されている。しかし別の伝本では用薬は終わりに記されている。その内容の前半は 1773年(安永2年)刊行の 『大同類聚方』抄本や1787年(天明7年)刊行の『大同類聚方抜萃』に似ているが、後半は前述の文政11年刊本に似ている。他に24巻までが欠けており、用薬が終わりに記されている伝本もある。 807年(大同2年)に成立した『古語拾遺』は漢文によって記されており、『日本後紀』における『大同類聚方』成立についての記述も同様である。『万葉集』は和歌を万葉仮名で表記しているが、詞書はやはり漢文である。しかし伝本では宣命体が用いられている(ただし後述の『勅撰真本大同類聚方』でも宣命体が用いられている)。 伝本に用いられる仮名は『万葉集』に見られるものと一致しない。また伝本における文言も『大同類聚方』の時代にまで遡るものではない。 伝本における各巻の記述はあまりにも少なく、一巻につき2枚から3枚ほどの量しかない。これは全巻に共通しているため、全て虫損が原因であるとは考えられない。 伝本には「従五位下典薬頭阿部朝臣真貞」とある。しかし『日本後紀』では名を「真直」としており、また真直が典薬頭であったとの記述はない(ただし『勅撰真本大同類聚方』の記述も伝本と同様であり『日本後紀』と一致しない)。 伝本には「侍医従六位上出雲宿禰広貞」とある。しかし『日本後紀』では広貞を外従五位下としており、また広貞の『大同類聚方』編纂時の姓は連であって812年(弘仁3年)に宿禰の姓を賜ったとある。 古林見宜『医療歌配剤』に「大同類聚方曰、痘瘡、始起自聖武天皇御宇、釣者遇蕃人継此病、称裳瘡一児患之、則一村流行也、猶裳之曳下、故名、焉初生児、食金箔、不患之」とある。この文は『日本後紀』にある『大同類聚方』成立のついての記述や古書における痘瘡の記述と矛盾せず、信頼できるものである。しかし伝本ではこれに相当する記述が確認できない。 伝本には加賀国という語が見える。しかし加賀国が越前国から分離したのは『大同類聚方』成立よりも後の823年(弘仁14年)である。 伝本では茶色という語が用いられている。しかし茶が史料上で確認できるのは嵯峨天皇の時代からであり、『大同類聚方』が成立した時期にこのような表現が用いられるとは考え難い。 『続日本紀』天応元年(781年)4月3日条では光仁天皇について「元来風病爾苦」としており、また『日本後紀』大同4年(809年)4月1日条では平城天皇について同様の表現が用いられている。また『栄花物語』(巻13ゆふしで)にも「この殿は、ちいさくより、風おもくおはしますとて、かぜの療治どもを、せさせ給」という記述が見えるなど、当時の史料から「風病」ないしは「風」(かぜ)という語は慢性的な疾患の名称であったことがわかる。しかし伝本では感冒の意で「風病」という語が用いられている。 そして佐藤は、師にあたる本居宣長がこの伝本について鎌倉時代のあたりに著されたものと推定したことから、当時『大同類聚方』とは異なる書として著されたものが後代に改竄されたか、あるいは当時から偽書として著されたものではないかとした。 1852年(嘉永5年)に著された花野井有年『医方正伝』には、のちに佐藤は後述する延喜年間の写本(典薬寮本)と延長年間の写本を発見したとある。佐藤は1856年(安政3年)から、この典薬寮本を底本とし前述の延長本および寛仁年間の写本との異同を示した『勅撰真本大同類聚方』(大同類聚方寮本)の刊行を開始した。1858年(安政5年)の著書『備急八薬新論』において佐藤は「流布印本ハ偽書ナル事奇魂ニ弁セリ正本ニ因ルヘシ」としている。
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