佐藤 眞
佐藤眞
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佐藤 眞 | |
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生誕 | 1938年8月24日(85歳) |
出身地 |
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学歴 | 東京藝術大学音楽学部作曲科 |
ジャンル | 合唱、管弦楽、器楽など |
職業 | 作曲家 |
佐藤 眞(さとう しん、旧字体:佐藤󠄁 眞、1938年(昭和13年)8月24日 - )は、日本の作曲家。
人物
代表曲には合唱団などで幅広く歌われている「大地讃頌」(『土の歌』の終曲)など。4つの交響曲、6つのオペラ、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、管弦楽のための協奏曲なども知られる。茨城県水戸市生まれ。 1961年(昭和36年)東京藝術大学音楽学部作曲科卒業。 1963年(昭和38年)同専攻科修了。作曲を下総皖一および池内友次郎に師事。 東京藝術大学音楽学部教授を2006年に退官。 現在、東京藝術大学音楽学部名誉教授、日本現代音楽協会名誉会員。
指揮者としても活動している。また、ピアニストとしては1993年12月に天満敦子との共演で『望郷のバラード』(日本初演)や『クロイツェルソナタ』『チャルダーシュ』を演奏しており、CD化されている(concert imagine、IMG-1001)。11度が届く大きな手の持ち主であり、「大地讃頌」のピアノ伴奏のオクターブ和音の連続にもそれらが反映されている[1]。
賞歴は、日本音楽コンクール作曲部門第1位および特別作曲賞(1961年)、芸術祭賞(1964年、文部省主催)、トリノ市賞(1972年)、イタリア賞グランプリ(1975年)、芸術祭大賞(1983年、文化庁主催)、第2回下総皖一音楽賞(1990年)、他多数。
主要作品
オペラ
- ツレップ(田中澄江 作 3幕4場)
- 雪女風土記(竹内勇太郎 作 2幕)
- 奇跡の手
- 犀(イヨネスコ 原作)
- 芥子の天人(小池タミ子 作)
- 魚が消えたとき愛はよみがえる(木村嘉長 作、プロデューサー 三善清達)NHKテレビ創作オペラ 1975年イタリア賞コンクール・グランプリ
- ビロン(仮題・自作台本で作曲中)
管弦楽
- 交響曲第1番(1961年) 第30回日本音楽コンクール第1位、特別賞
- 交響曲第2番(1963年)
- ピアノと管弦楽のための喜遊曲(1964年)
- 管弦楽のための変奏曲(1970年)
- ソプラノと管弦楽のための交響的瞑想曲『死の淵より』(1973年)
- 交響的変容(1975年)
- 管弦楽のためのラプソディー(1978年)
- 交響曲第3番(1979年)
- ピアノ協奏曲(1983年) 芸術祭大賞
- 交響曲第4番(1986年)
- 管弦楽のための協奏曲(1987年)
- 交響詩『北の大地』(1990年)
- 管弦楽のためのバラード(1992年)
- ヴァイオリン協奏曲(2005年)
室内楽・器楽
- ヴァイオリンとピアノのための『カプリッチョ』
- チェロとピアノのための『エレジー』
- 『哀歌』ヴィオラとピアノのための
- クラリネットとピアノのための『幻想曲』
- 無伴奏ヴァイオリンのための『幻想曲』
- ファゴットとピアノのための『パストラーレ』
- ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための『ノヴェレッテ』
- ピアノ・ソナタ第1番
- 2台ピアノのための『ブルレスク』
- こどものためのピアノ曲集『翔くんのピアノファンタジー』
- 弦楽四重奏曲第1番
- 弦楽四重奏曲第2番
- オルガンのための『前奏曲、間奏曲、フーガ』
合唱
- 混声合唱のための組曲『蔵王』(ニッポン放送委嘱、プロデューサー 池田文雄)
- 混声(女声・男声)合唱のための組曲『旅』
- 混声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』(ピアノ伴奏版もある。終曲「大地讃頌」は広く知られる)
- 男声四重唱、混声合唱と管弦楽のためのレクイエム『眠れ幼き魂』(混声合唱とピアノ、または女声合唱とピアノのためのヴァージョンもある)
- 無伴奏混声合唱のための『新・わらべうた』
- 混声合唱のための組曲『若い合唱』
- 混声(男声)合唱組曲『若人のうた』
- 無伴奏男声合唱のための『海のヴァリエーション』
- 20のわらべうた
- 混声(女声)合唱組曲『海』
- 混声合唱のためのドラマ『星からの招待』
- 児童(女声)合唱のための組曲『水の国・川の街』
- 混声合唱とピアノのための組曲『水の惑星』
- 混声合唱とピアノのための組曲『美しい星に』
- 女声合唱とピアノのための2つの小品『舞・花びらのかんむり』
- 児童合唱、混声合唱とピアノのための合唱幻想曲『ふるさと』
- 『みえない樹』(昭和52年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲)
- 『時代-飛び立つ鳥は-』(昭和63年度NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲)
- 『いっぽんの欅の木が』(平成5年度NHK全国学校音楽コンクール中学校の部課題曲)
童謡
- ふしぎなでんき
- むぎわらぼうし
- はしるのだいすき
- パチリコパチリンなんだろな
- ぼくのクレヨン
- たねまきちちんぷい
団体歌
- 東海旅客鉄道株式会社 社歌
- 小山市市歌「小山わがまち」
- 寒河江市民歌
- 埼玉県立大宮光陵高等学校校歌
- 山形県立新庄神室産業高等学校校歌
- 青山中学校校歌
- 長野県飯山高等学校校歌
- 秋田県男鹿市立北陽小学校校歌
- 横浜翠陵中学校・高等学校校歌
- 東京都江戸川区立臨海小学校校歌
- 東京都江戸川区立中小岩小学校校歌
- 神奈川県立大船高等学校校歌
- 東京都立東村山西高等学校校歌
- 千葉県立成田西陵高等学校校歌
脚注
出典
- ^ “教育芸術社 『音楽教育』”. 2016年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年12月21日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 佐藤眞 オフィシャルウェブサイト
- 佐藤眞 (@shinsato2022) - X(旧Twitter)
- 佐藤眞(BCA内)
佐藤真
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さとう まこと 佐藤 真 | |||||
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生年月日 | 1957年9月12日 | ||||
没年月日 | 2007年9月4日(49歳没) | ||||
出生地 |
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出身地 |
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死没地 |
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職業 | 映画監督 | ||||
ジャンル | ドキュメンタリー | ||||
活動期間 | 1983年 - 2007年 | ||||
活動内容 | 映画監督、文筆業 | ||||
主な作品 | |||||
無辜なる海 1982年・水俣(1983年) 阿賀に生きる(1992年) まひるのほし(1999年) SELF AND OTHERS(2001年) | |||||
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佐藤 真(さとう まこと、1957年9月12日 - 2007年9月4日)は、日本のドキュメンタリー映画監督。
東京都立富士高等学校[1]、東京大学文学部哲学科卒業[2]。
経歴
2歳で家族が上京。千葉県松戸市のマンモス団地で物心付き、東京都練馬区石神井で育つ。
東京大学在学中より水俣病の運動に関わり、香取直孝監督の『無辜なる海 1982年・水俣』の助監督となる。1984年に、その映画の自主上映の途中で、阿賀野川とそこに暮らす人々と出会い、映画作りを決意する。
各務洋一監督に私淑した後、1989年からスタッフ7人と新潟に2年間移り住んで住民と密着して暮らし、1992年に初の監督作品『阿賀に生きる』を完成させ、絶賛される。キネマ旬報ベストの3位になる他、内外の映画賞で高い評価を受け、また芸術選奨新人賞映画部門を受賞。
その後、テレビ、映画の編集・構成などの仕事をしながら、ドキュメンタリー映画を撮り続けた。また、1999年より映画美学校で、2001年より京都造形芸術大学で、ドキュメンタリー映画を教えた。
ドキュメンタリー映画に関する著作も多数執筆。2002年8月からは、文化庁派遣芸術家在外研修員として、1年間イギリスに滞在。その記録を著書『まどろみのロンドン』にまとめた。
だが、2006年11月から鬱病で入退院を繰り返し、2007年9月4日に東京都板橋区の高島平団地で飛び降り自殺[4]。49歳没。
2008年5月31日、「日本映像民俗学の会 研究会」において、上映企画「佐藤真の映像民俗学の世界を見る」が行われた。そのイベント内で、生前の佐藤と親交があった吉松安弘(映画監督、ノンフィクション作家)から、佐藤の遺作である『映画監督って何だ!メイキング』(2006年)の編集方針について、制作元である「日本映画監督協会」幹部との間で激しいやりとりがあり、佐藤が本意としない形で作品が完成させられていたことが明かされた。同イベントでは、佐藤自身の編集による未公開ヴァージョンの『映画監督って何だ!メイキング』が上映された[5]。
フィルモグラフィー
映画
- 無辜なる海 1982・水俣(1983年) - 助監督
- 阿賀に生きる(1992年) - 監督・編集
- おてんとうさまがほしい(1995年) - 構成・編集
- ナージャの村(1997年) - 編集
- まひるのほし(1999年) - 監督
- 王母鄭氏 チョンおばさんのクニ(2000年) - 編集
- 花子(2001年) - 監督[6]
- SELF AND OTHERS(2000年) - 監督
- 阿賀の記憶(2004年) - 監督
- わたしの季節(2004年) - 編集
- エドワード・サイード OUT OF PLACE(2005年) - 監督
- 映画監督って何だ! メイキング(2006年) - 監督
テレビ
- 我家の出産日記(1994年、テレビ東京) - 監督
- 写真で読む東京(1996年、NHK) - 監督
- 虹の架け橋-台所と農業をつなぐ地域自立への長い挑戦(1997年、テレビ東京) - 監督
- 日本NGOとバナナ村の10年(1999年) - 監督
- 森達也のドキュメンタリーは嘘をつく(2007年、テレビ東京) - 出演
著書
- 『日常という名の鏡 ドキュメンタリー映画の界隈』(1997年、凱風社)
- 『ドキュメンタリー映画の地平 世界を批判的に受けとめるために』(2001年、凱風社)
- 『映画が始まるところ』(2002年、凱風社)
- 『まどろみのロンドン 映画作家の妄想スケッチ』(2004年、凱風社)
- 『ドキュメンタリーの修辞学』(2006年、みすず書房)
- 共著
- 『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(2006年、みすず書房、シグロ編、中野真紀子との共著)
脚注
- ^ “偉人館展示 | 都立富士高校100周年「大人の文化祭」”. fuji100th. 2020年12月26日閲覧。
- ^ “佐藤真”. アテネ・フランセ文化センター. 2015年7月23日閲覧。
- ^ “日本のドキュメンタリー作家インタビュー No. 23 - 佐藤真 (1/2)”. 山形国際ドキュメンタリー映画際 (2005年1月8日). 2015年7月23日閲覧。
- ^ “ドキュメンタリーの佐藤真監督が飛び降り、死亡”. 朝日新聞. 2016年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月15日閲覧。
- ^ 日本映像民俗学の会 研究会
- ^ “エンターテイメント グー”. goo. 2022年7月17日閲覧。
関連項目
外部リンク
佐藤 真(さとう まこと)
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「センセ。」の記事における「佐藤 真(さとう まこと)」の解説
明神学園「みょうじん」高等部女子校舎講師。新人講師であり、女子校舎唯一の男性講師。担当は理科。明神学園男子校舎出身。担任代理。
※この「佐藤 真(さとう まこと)」の解説は、「センセ。」の解説の一部です。
「佐藤 真(さとう まこと)」を含む「センセ。」の記事については、「センセ。」の概要を参照ください。
「佐藤 眞」の例文・使い方・用例・文例
- 佐藤さんをロビーで呼び出ししてもらいたいのですが
- 山田先生が、佐藤先生に質問をする
- 山田と佐藤が一緒に歌の練習をする
- 山田さんと佐藤さんが同時に言う
- 山田と佐藤はクラスが同じと言う
- 山田と佐藤が、25日、教会で結婚式を挙げた
- 佐藤の後任の山本です
- 佐藤先生は何の科目を教えますか?
- 私はデザイン担当の佐藤です。
- 私、有限会佐藤商会の製造部の近藤と申します。
- 私、池田グループ株式会社の広報部の部長の佐藤と申します。
- 彼女が、佐藤君と結婚するなんてありえないよ。
- 私たちは佐藤さんが部屋から出るのを見た。
- 姉は佐藤さんと結婚したが、佐藤さんのお父さんは私の母の友人だ。
- 佐藤先生が私のクラスを担当しています。
- 佐藤氏を紹介しましょう。
- 佐藤氏は上京する前は生まれ故郷でスーパーを経営していた。
- 佐藤氏は、私に選挙について多くの質問をした。
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